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XX文学の館 発禁本

ニセ本


秘版艶本の研究会員制の特殊雑誌【稀書】の創刊号(第一組合稀覯文献研究會、芋小屋山房、昭和二十七年一月)に『當世ニセ本つくり』と題した短文があります。後に公刊誌【人間探求】別冊「秘版艶本の研究」(第一出版社、昭和二十七年五月)XYZの筆名で加筆されて一般に公開されました。この文章は非常に面白いので全文転載したい所ですが、そうも行きませんので、要点を抜き出し(※1)、そこに取り上げられている発禁本に就いて解説してみます。人の褌で相撲を取るというやつですが、出版の裏事情を面白おかしくまとめてあり、見開き二ページの分量しかありませんが、発禁本の入門編としても優れたものと思いますので、利用させて頂くことに致しました。

ポイントは昭和二十五、六年頃に大量に出版(公刊)された艶笑本が、肝心の部分を省略した骨抜きのニセ本である、との観点から論じている点です。そうは言ってもそれらニセ本の大半は摘発を受けていますので、当時としては十分に刺激的だったのでしょう。

鑑賞用の美術品であれば、本物は高くて買えないから精巧な偽物が喜ばれ、精巧であればある程賞賛されます。しかし、お札の偽物、つまり偽札は精巧であればある程騒ぎが大きくなります。と偽物にも色々ある事から話が始まります。


ところがニセモノにも例外がある。お色氣がかつた本がそれである。というのは、こちらはホンモノだと騒ぎが大きく、ニセモノだとそれ程に騒がないからである。どうしてこんな妙な事になるのかと云うと、ニセ本には肝心のところが抜かれているか、ゴマカシテあるからだ。

騒ぎが大きくなる本物は何かと言えば、昭和初期、梅原北明を初めとして、所謂エログロナンセンス時代(正確にはそのちょっと前)に出版された翻訳軟派本群のことを指しています。当時は当時なりに、やれ本物ではない、インチキ本だ、訳がいい加減だ、他所はダメだがうちは本物だ、とかまびすしかったのですが、戦後のこの時期に刊行されたものに比べると遥かにましであった、と言うことでしょうか。

つまり書物の世界ではニセ本はいわば、さゝやかなマスターベーションの役目を果たしているわけになる。

然らば斯くも安直に、このマスターベーションをさせてくれる奇特なニセ本作りの御仁はどんな教育者であろうか、昔の話や、ケチなガリ版屋だの、モグリ業者はさておいてバリバリのエキスパートをご紹介して見よう。

いよいよ本論に入って行きます。

ニセ本作りは教育者である。といつたが、その証拠には、このところニセ本製造の大関格のM書房に行つて見ると『教育出版』という看板は出て居るが、紫とも桃色とも書いてはない。それもその筈、M書房の主人は都立高校PTA会長である。こゝの発行者にされている豊久吉造とは架空の人物だが、筆者はたいてい松戸淳、即ち平野威馬雄のことである。彼の住まいが千葉縣の松戸だからとは案外素直なペンネームだ。

この御両人達が五〇年の暮れに「匂える園」を出し、初版が賣切れてシメタと再版を問屋に積上げたら「御用だ!」で、シマッタ、という一幕を演じたが、ニセ本に忠実だつたのか、フランス語の原本の内容を勝手に前後したり、註や詩を省いたりして低俗な読物にした事が当局をシゲキ、コーフンさせたらしい。

このM書房は紫書房のことです。大関格と言われる通り、{世界艶笑文庫}{むらさき文庫}などの名称で、主に翻訳物の艶笑本を大量生産し、それに比例して度々摘発も受けています。ニセ本と言うことは本物の元本がある訳で、併せて見て行くことにします。

ここで「匂える園」の本物とされているのは、文芸資料研究会編集部から刊行された「ジャルダンパヒューム」です。邦題を「薫園秘話」とし、上森健一郎訳で昭和三年三月に出ています。この本は、元々北明{愛に関する世界的古典}の第三巻として刊行する予定で作業を進めていたものですが、上森文芸資料研究会編集部に先を越されたものです。北明はこのことが余程悔しかったのか、【グロテスク】二巻二号(グロテスク社、昭和四年二月)の『現代邦譯艶書解説史』(後に「秘戯指南」(文芸市場社、昭和四年五月)に再録)に於いて、造本がお粗末であるとか、学生に翻訳させた粗悪品であるとか、散々悪口を書いています。

匂える園
文芸資料研究会編集部版 紫書房版(第一集) 紫書房版(第九集)

紫書房では、「匂える園」を二回出しています。最初は本文にもある松戸淳訳で昭和二十六年三月昭和二十五年十二月に出したもの、二度目は田村恒男訳で翌年十二月に出したものです。何れも摘発を受けていますが、二度目の田村訳は、ニセ本の烙印を押された松戸訳よりさらに改竄が激しいものです。それにしても、同一叢書の中で、二度も同じものを刊行するといった掟破りの荒技を繰り出したのは、最初に出した松戸訳で、余程美味しい思いをした、と言うことでしょうか。

この出版社は、最近『おんな色事師』というニセ本を出したが、これには一條のエピソードがある。だいたいこの本は昭和五年ごろ上野廣小路の帝博ビルに南下(ママ)書院というのをコネ上げた上森健一郎の後継者宮本良が出したもので、どつちにしたところで単なるドイツ語のワイ本だが、これを自称詩人某なる男が何処からか見附け出し、さらに、この冬自動車事故で死んだ青山倭文二と謀つてかつての大先達、故梅原北明が出した「オデットとマルティヌ」の附録に付けた「蕩児の冒險」と一緒にして持込み、日本に於ける翻訳権を持つているからと、主人に相当な金額で賣りつけた。こんなポルノグラフイに翻訳権も蜂の頭もないのだが、

誤植でしょうが(何故かこの文章は誤植、脱字が非常に多い)、書院書院の誤りです。創立は昭和四年の三月頃、本文にもありますように、文芸資料研究会編集部の経営権を上森から譲り受けた山中直が、編集を担当していた宮本良等と共に立ち上げたものです。当時は雑誌【変態黄表紙】を発行していましたが、上森が居なくなった途端、急に当局の弾圧が厳しくなったため、嫌気が差した山中が、たった一冊続刊しただけで経営を投げ出し、宮本が経営も兼務するという無茶苦茶な状況であった、と言われています。

「おんな色事師」の本物とされるのは、「匂える園」を出した文芸資料研究会編集部が昭和四年七月、宮本良訳で出したものです。判型が枡形、とちょっと変わっており、本文二度刷りで天金ですが、本文用紙にザラ紙を使用するなど、誉められた造本ではありません。また、宮本は忠実に訳すというよりは意訳が多く、好き勝手に訳すということで有名でしたが、それでも戦後は本物の扱いを受けた訳です。

おんな色事師
文芸資料研究会編集部版 紫書房版

ところで、さてその訳本と翻訳権なるものを買つては見たものゝ肝心の原作者の名も、原本の名もわからない。そこで好色文学の権威と自他ともに許す松川建文に聞きに行き、若しそれが解らなかつたら適当に作つてください。と窒だが、さすがの松川も、そんな大それたことは出来ないヨ、とアッサリ、ケトバした。これには大分弱つたらしいがそこはニセ本の有難さ、どうにか出鱈目を書き勿論、骨も肉もないゲテモノを出版した。知らない事とは云いながら、こんなニセモノを掴ませられた読者こそ全く以つて迷惑な話だ。参考までにその原名などを披露して置こう。Davernos:EineMeister-in der Liebe これが『おんな色事師』のテキストである。

このような裏話は枚挙に暇がないのでしょうが、当時から何やかや言われていたとは言え、流石に大関格と称されるだけあり、紫書房は刊行点数でも摘発回数でも他を圧倒しています。それら、同書房の刊行物の一覧に就いては紫書房刊行物一覧を参照して下さい。


松川建文と云えば、これはニセ本ではないが、彼はロゴス出版社の看板をあげ、高級カストリ誌と称して「アベック」を発行した。このアベックにはさる川柳の大御所、〇氏なども一時編輯に参與した事があり、創刊号の奥付には浦和辺りで何だかゴソゴソ造つている「芋小屋山房」の森山太郎が発行人になつている。

松川建文初め、岡田甫(〇氏のこと)、森山太郎といった、錚々たるメンバーが作った【アベック】なるカストリ雑誌には大いなる興味がありますが、カストリ雑誌そのものが殆ど手許にないため、コメントできません。カストリ雑誌は、発禁本でも一つの分野を成す主要な集団ですが、それに対して何のコメントも出来ないというのは、情け無いやら恥ずかしいやら、意識的に蒐集を控えていた付けが回ってきたと言えましょうか(何とかしようにも今からでは遅すぎか…)。


古川柳の花形「末摘花」の本元がやはりロゴスであり、永井荷風の戯作であるとか、ないとか騒がれた「四畳半襖の下張り」もこゝから飛出した。これらの裁判沙汰でスッタモンダの挙句、裁判には勝つたが、ソロバンには負けて、一同チリヂリの運命となり、ロゴスの看板は作品社と替り、こゝに居た田中と云う青年は、b田辺りでコチョコチョとサゝヤカなニセ本作りに精励しているが、時の流れとは云いながら哀れである。

ロゴス社から出た東都古川柳研究会編「新註 俳風末摘花」(昭和二十二年三月)は、校訂者の一人である柳田良一が末摘花研究の第一人者岡田甫の変名ですから、その内容は保証付きです。 通称東都本と呼ばれていますが、戦前から出せば必ず発禁の「末摘花」のことですから、この本も当然の如く摘発を受けています。他の場合と異なりますのは、もう一人の校訂者の葛城前鬼こと松川建文が正式裁判に持ち込み、無罪になると言う快挙を成し遂げた点にあります。『裁判には勝つたが』の部分です。

この裁判では山路閑古山沢英雄の両人が鑑定人として「末摘花」を擁護する立場の鑑定書を提出しています。無罪後に再版された後記に『両氏の鑑定書はいづれも多年の薀蓄を傾けたもので、単に鑑定書としてではなく、優に獨立した論攷として本書の解釋を啓蒙し、文藝學界に裨益すること極めて大なるものであった。』とありますが、鑑定人の一人であった山路閑古は自著「庭柿」(私家版、刊年不詳)

その後私は七十枚ばかりの原稿を書いて、裁判長に提出した。芭蕉俳諧を説き、江戸座俳諧を論じ、雜俳、川柳に及ぶといふ簡易な文藝評論で、二六時中書いてゐる俳論と大差ないものであるから、何の造作もなく、それこそ参考書一冊用ゐず、全文そらで書上げた。二ヶ月と云つて勿体をつけて猶豫を乞うたけれども、実は二日ばかりで書き飛ばした。至つて杜撰極まるもので…略…本格に取組めば學位論文にもなるであろうが、鑑定書程度のことに、さう骨を折ることもないのだつた。

と手抜きの実態を明かしています。こんな程度の裁判で、と思ったのか、裁判で文学論を述べても詮無いこと、と考えたのかは分かりませんが、戦前からの古川柳研究家であった両氏に鑑定を求めた時点で、結論は出ていたように思います。今になって考えれば、あの山路閑古が鑑定人になることを承認した検察側の失態とも言えるでしょうか。尤も、無罪が確定した本当の理由は、控訴出来なかった検察側の別の失態によるもの、との真しやかな話もあることはありますが…。

書籍に対する猥褻容疑を正式裁判に持ち込むことは余りなく、その裁判で勝利することはさらに珍しいことですから、素直に喜ぶべきことではありましょう。何れにしましても、それ以降は「末摘花」そのものの出版は自由になりましたが、解説本に就いてはケース・バイ・ケースのようでした。しかし、裁判を維持することは大変で、結局ロゴス社は解散の憂き目にあってしまいました。『ソロバンには負けて』の部分です。

東都本末摘花(初版) 東都本末摘花(再版) 四畳半襖の下張り

追記:平成十四年十月十三日

「新註 誹風末摘花」の初版を長年探していた。摘発を受けたとは言え(無罪になっている)、戦後に公刊されていたものがこれ程長期間見付からない筈はない、と思いながらも出会えなかった。昭和二十六年の再版は国文系の古書店へ行けば大概棚にあるし、何回か古書展があれば、何処かで見掛ける。不思議な気持ちでいたのだが、最近「末摘花輪講」四冊(太平書屋、平成七年十二月〜九年十二月)を購入、はしがきに「『新註誹風末摘花』木屋太郎 昭和二十二年 鹿鳴文庫(奥附) いわゆる〈東都本末摘花事件〉として起訴された歴史的著書である。略…再版本…略…が、ロゴス社から堂々と世に出た。」とあるのを見て、目から鱗が落ちた。

初版がロゴス社名義になっていたかどうかは別にしても、少なくとも東都古川柳研究会柳田良一葛城前鬼の名前が、発行か編集にあると思っていたのが間違いだった訳である。確かに木屋太郎松川建文の筆名ではあるが、東都古川柳研究会柳田良一の影も形もない。この本は何回か見掛けたことはあるのだが、鹿鳴文庫なる名義や、非売品になっているとは思わなかった。裁判に於いて、松川建文一人が孤軍奮闘し、柳田良一こと岡田甫は裁判中は何も発言しなくて、無罪になった途端表に出だした、という論調を何処かで見たことがあるが、名義が松川建文のみであれば当然であろう。

しかし、このことに言及している解説は見たことがなかった。それとも館主が知らなかっただけなのであろうか。 尚、「新註」が頭に付くのは内題で(再版は奥付もそうなっている)、表紙には付いていない。


「四畳半襖の下張り」に就いては今更多言を要しないでしょうが、永井荷風の秘作と伝えられる短編です。書影は最初の活字化本と言われる、ロゴス社から刊行されたものです。

ロゴス社の後を受けた作品社では平賀源内の「長枕褥合戦」「チャタレー夫人の恋人」などを刊行しましたが、作品社内に設けられた東京限定版クラブでは、雑誌【奇書】を初め、無削除でヘンリー・ミラーの「セックサス」や地下本の「乱れ雲」「袖と袖」の続編とされる「さよ時雨」なども刊行しています。元々第一出版社内にあったアドニス会を、同社が解散した後引き取り、男色系の雑誌【アドニス】を継続することも、行っています。

松川建文が出た序でに紹介されたロゴス社であり作品社ですが、本文にもある通り、ニセ本ならぬ本物を出し続けたが故に、「末摘花」の解禁という偉業も達成しましたが、長続きが出来ないという運命を、自ら背負ってしまう結果になってしまいました。


「末摘花」も「四畳半」もあとからあとからとニセ本のニセ本の、またニセ本と云つた調子で、大いに巷を混乱させたが、「末摘花」ならぬ「末(ママ)摘花」を出した石神書店などは、ニセ本作りのオーソリティだろう。奥付の番地を尋ねたら燒跡だつた、なんて云うドボケたニセモノぶりから見ても、仲々どうして、只のネズミぢゃない。

本当にその住所に行ったのだろうか、というような詮索はさておき、この部分は色々な解説書のコラムなどにも引用されているので、ご存じの方も多いかも知れません。ただ、摘花」ならぬ摘花」では意味が通じず、後者は摘花」が正解です。元々の誤植に対して誤植してしまったため、正しい表現に戻ってしまい、文意が不明になると言う、ニセ本を論じるには相応しい現象かも知れません。しかし、この部分は結構面白いフレーズなので、惜しい誤植とは言えるでしょう。

この「未摘花」(日本珍本研究会、昭和二十二年四月)は表紙をデザインした人の単なる勘違いでしょうが(再版(昭和二十二年七月)は「末摘花」になっている)、如何にもニセ本臭くて、わざとやったのではないか、と思える程出色の出来です。 石神書店は岐阜にあったことから、この「末摘花」は通称岐阜本と呼ばれています。ニセ本と呼ぶに相応しく杜撰な内容でした。

岐阜本「末摘花」
未摘花(初版) 末摘花(再版)

それでは本物は、との問には先に記したロゴス社「新註 俳風末摘花」東都本がそれに当たります。

この他に石神書店から出たもので摘発を受けたのは、「日本珍書復刻集」「お定色ざんげ」があります。

石神書店発行の摘発本
「日本珍書復刻集」 「お定色ざんげ」

「日本珍書復刻集」『源平盛衰記 壇の浦戰記』『大東閨語』『黄素妙論』の三編を所載している本文二度刷りの地下本です。奥付がありませんので立派な地下本ですが、何故か公刊本の巻末や、カストリ雑誌に広告が出ていたりします。そんなんあり、と言う疑問が無くはありませんが、後年の【生活文化】【セイシン・リポート】も公刊誌で宣伝や会員募集を行っていますので、その先駆けとも言えるものでしょうか。


それは兎も角、近頃のようなニセ本ブーウムをつくりだしたのは東京書院あたりに図星を差して間違いあるまい。この東京書院が(これは白鳥や実篤などの面白くもない本ばかり出してツブレて大轉換した出版屋だ)日本原一平訳『蚤の浮れ噺』で儲けたから、欲の皮のツッパッタ連中が指をくわえて引込んでる筈はない。我も我もと言う事になる。

ここでは訳者が日本原一平になっていますが、これは筆者の勘違いで、正しくは原一平です。原作者英国のアンドレ・マルションに対応して訳者日本の、の意味で書かれていたものを繋げてしまったための誤解です(初出の時は「一平」としていたので何も問題はなかったのですが、何故換えてしまったのでしょうか)。紫書房「匂える園」の方が、刊行は半年近く早いので、ブームを作り出すきっかけが「蚤の浮れ噺」かどうかは何とも言い難い所ですが、紫書房が新興の出版社であったため、摘発が重なるまで世間に知られなかったからかも知れません。転向で儲けた東京書院の方が出版業界に与えた影響が大きかったということでしょうか。

東京書院で刊行したとされる面白くもない正宗白鳥や武者小路実篤の本が何であるのかは色々と探してみましたが、よく分かりませんでした。が、後で考えたら潰れる前の社名が東京書院である保証は何もなく、結局深追いする気がなくなってしまいました(ご存じの方がおられましたらご教示頂ければ幸いです)。 大転換後に摘発を受けたものはこの「蚤の浮れ噺」の他に、「バルカン戦争」「ジュリヤの青春」があります。

「蚤の浮れ噺」は元々「蚤の自叙伝」として刊行され、『ベラーさんの話』『ヂュリヤさんの話』の前後二編で構成されています。「蚤の浮れ噺」はその前編の六章構成の内、描写に多少露骨過ぎるきらいがあるため一章を割愛した、と付記していますが、実際に割愛されているのは、ストーリーとは直接関係がない最終章です。

「バルカン戦争」は昭和の初期にも何点か出ていますが、戦後になっても紫書房などから刊行されています。詳細に就いては、秘本縁起内の、バルカン・クリーゲをご覧下さい。「ジュリアの青春」に就いては該当する元本が昭和の初期に出ていたかどうかは不明ですが、東京書院版が初出ではないでしょうか。

東京書院から出版された刊行物の詳細に就いては東京書院刊行物一覧を参照して下さい。

「蚤の浮れ噺」

この『蚤』もニセ本中のニセ本で、やはり昔、梅原北明たちが出した、佐藤紅霞訳の日本語版を弄訳?したもので、方々担ぎ回つた原稿を、東京書院の城戸が叩いて買つたというシロモノ、ところが、これが大阪で発禁になり、「原本はロンドンのエメラルド社発行のものだ」と書いた日本原は「原本を提出しろ」と詰寄られて大いに弱つたと云う。それもそうだろう。『蚤の自叙傳』のオリジナルテキストはフランス語のものなのだから。

「蚤の自叙伝」は昭和二年十月、雑誌【文芸市場】(文芸市場社)九・十合併号に『蚤十夜物語(英吉利)』として佐藤紅霞が発端部分を訳したのが本邦初です。【文芸市場】が同号で廃刊になってしまったため、後続誌である【カーマシャストラ】(ソサイテイ・ド・カーマシャストラ)で連載が継続されました。

その後、度重なる弾圧で【カーマシャストラ】も廃刊に追い込まれますと、またも中途半端な形になってしまいましたが、文芸資料研究会に招かれた紅霞が同所から昭和四年一月頃全訳したものを単行本として刊行しました。

この単行本が、ここでは本物として扱われていますが、これにしましても当初【カーマシャストラ】誌上で『ファンニ・ヒルなぞの比でない。』と絶賛していた北明も、紅霞と別れた後に刊行した雑誌【グロテスク】二巻二号(文芸市場社、昭和四年二月)の『現代邦譯艶書解説史』では、フアンニー・ヒルと比較したならば、『義経と向ふづねほどの差がある』と評価が変わるなど、状況の変化と多少のエゴが絡んでいます。

「蚤の自叙伝」の原作は、一八九〇年頃パリで刊行された「Les Souvenirs d'une Puce」蚤の追想です。但し、紅霞が訳した元本は、一九一〇年のフィラデルフィア版「The autobiography of A FLEA told in a Hop,Skip and Jump」です。

尚、「蚤の自叙伝」の詳細に就いては、秘本縁起内の蚤の自叙伝をご覧下さい。


さらに、園書房というのがある(ママ)これは思索社の残党がやつている最も徹底したニセ本作りである。それこそ誰の書いたものでも構わない、およそかつて発禁となり、、(ママ)本と称せられ、多少とも本の名前が知られているものならば片ッパシからデッチ上げて了うと云う誠に恐るべき<ニセ本作りではある。第一番に花町右門が訳した。(ママ)『ガミアニ』を誰かに燒直させて『悦楽の園』とタイトルを変え、更に佐々木孝丸が訳した『ふあんにいひる』を見付け出すと早速ニセた。何でもいゝから拙速と安價をモットーに、ホンモノらしくニセモノを作るメーカーだが、専らタネ本を血眼で物色中。どなたか試しに行つて御覧なさい、大いに歡迎されますョ。

「ガミアニ」の原本は一八三三年、ベルギーのブリュッセルで発行された石版刷り二十六頁(石版なので一頁一葉と思われます)、挿絵十二葉のもので、詩人であるアルフレッド・ド・ミュッセの作とされています。我が国には昭和の初めに「世界珍書解題」(佐々謙自、グロテスク社、昭和三年十一月)や「世界好色文学史」第二巻(梅原北明、酒井潔、佐々謙二共著、文芸市場社、昭和四年六月)などで紹介され、昭和六年に平凡社から刊行された{世界艶笑文学}第一巻に「歓楽の二夜」と題して丸木砂土訳で所載されているのが初出です。 伏字だらけで意味も何も通じないようなものでしたが、発禁処分を受けています。

西欧諸国では初版以降一九二七年までに四十点以上刊行されていますが、戦前の我が国での刊行は、案内は何回か出ていますが、何故かこの一点だけです。それ程著名ではない当時の新作「バルカン・クリーゲ」が何点も刊行されているのと較べると雲泥の差がありますが、北明が手を付けなかったのがその理由ではないかと推測されます。

戦後になりますと状況は一転します。昭和二十四年四月に早々と花町右門訳で三竹書房から刊行され、先の元本になった訳ですが、アッサリ摘発されています。園書房「悦楽の園」は昭和二十六年六月の刊行ですが、同時期に出た紫書房「ガミアニ」と共に枕を並べて討ち死にしています。

「ガミアニ」
紫書房版 園書房版「悦楽の園」 三竹書房版

「ファンニー・ヒル」は一七四〇年代、イギリスのジョン・クレランドによって書かれた作品です。本文にもありますように俳優の佐々木孝丸の訳で昭和二年一月に文芸資料研究会から刊行されています。作品自体は彼の国でも発禁になっていると言うことで、既に知られていましたから、珍書マニアに熱狂的に受け入れられた、と伝えられています。しかし、無納本であったため、文芸市場社が手入れを受けた時に出版法違反に問われています。尤も、納本していたならば、その場で発禁になっていたと思われますので、世の中に存在しない幻の本の仲間になっていたことが予想されます。後に本家争いに発展する程エポックメイキングな出版ですが、この時はまだ文芸市場社の分裂前ですので、同人一同で快気炎を上げていたものと思われます。「ガミアニ」と異なり、当時から著名であったため、地下本を含め何点か刊行されています。

戦後は先ず紫書房「情婦ヒル」が昭和二十六年三月に刊行され、続いて園書房「ファニー・ヒル」が同年十月に出ており、何れも摘発を受けています。その後も、河出書房新社から{人間の文学}シリーズ第一巻(吉田健一訳、1965年7月)として刊行されましたが、早速摘発されました。

「ファニー・ヒル」
園書房版 河出書房版

園書房は後に美和書院と名称を変え(「ファニー・ヒル」に既に括弧書きで使用されています)、紅鶴版、丹頂版と称した和紙をたっぷり使用した豪華本の叢書を刊行することになります。これの第一巻「好色三大伝奇書」は相変わらずニセ本路線ですが、以降の全巻総てには伏字表を付けるという本物志向に転換しました。しかし、その甲斐もなく、と言うよりは、そのために、健闘虚しく潰れてしまいました。これは、本物を志向したために当局の目を付けられた、と言うよりは、愛書家好みの造本に力を入れすぎたためでしょう。何れにしましても、当時は、所謂本物を目指すことは、鬼門であったようです。

園書房から出版された刊行物の詳細に就いては園書房刊行物一覧を参照して下さい。


自称性文学の大家、海賊版『チャタレイ』の行商人『春情花朧夜』『特殊文学選』などの発行者、藤井純梢(ママ)もニセ本作りの関脇くらいのところだ。彼は何でもかんでも自分が訳したことにする。英独佛語、何でもゴザレ、と云うわけだ。だから漢文や擬古文など平氣のヘイザ、以前石神書店が出した『壇之浦』や『大東閨語』果ては『水揚帳』まで怪しくも歪曲して出版する位はオ茶の子サイサイ。彼はニセ『チャタレー』の裁判には官選弁護人を用い、小山書店のようなムダ使いはしないという。誠にたくましい商魂の所有者である。

藤井純逍の刊行物には変わっているものが多くあります。その一つは暗号によるホットパートの隠蔽です。猥褻な言葉をそのまま使用するから摘発されるのであって、読んでも分からないようにすれば問題ないはずだ、と言うのが発想の出発点です。通常その様な場合は伏せ字にしますが、伏せ字にしてしまっては誰にも分からなくなってしまうし、伏字表を別に作らなければならないと言う面倒な作業が発生します。そこで先生が考えたのが伏せ字の代わりに暗号化すると言う方法です。『怪しくも歪曲して』と言われる所以です。

その他にも摘発は受けていませんが、左縦組みという型紙破りな「性愛研鑽法と人生の幸福」(日本コバルト文化協会、昭和二十四年八月)を刊行したりしています。

壇の浦夜合戰戦記 續壇浦夜合戰戦記

ホットパートを暗号化するという手法は遠く昭和初期の雑誌【芸術市場】(芸術市場社、昭和二年三月〜十月)で既に使われていますが、戦後の単行本ではこの藤井純逍の一連の刊行物が最初で最後ではないでしょうか。

藤井純逍の刊行物に就いては藤井純逍刊行物一覧を参照して下さい。


宮沢賢治の本を出したが少しも賣れず、雨ヤ風ニハマケナイガえ (ママ)本にはカナワナイ、ソウイウモノニ俺モナリタイと、十字屋書店が別の看板を出したのが風俗文献社だ。軟文学の元老、少雨莊、こと齋藤昌三を口説き落して『はこやのひめごと』等の日本三大奇書の現代語訳を作つたが、相憎、柳の下にドゼウが留守だつたのか、著書に稿料を払えない程の醜態を演じまともなものじゃとても駄目、やつぱりニセ本に限ると三宅一朗の『匂える園』なる偽物を出した。

好色日本三大奇書

風俗文献社は、摘発を受けた「太陰の娘サロメ」(デュム・ド・アポロ、帆神煕訳、昭和二十七年三月)や「マドリッドの男地獄」(ジュリアン・ビザロウ、帆神煕訳、昭和二十七年五月)、などの豪華本も出しています。後に話題を呼ぶことになる歌集「秘帳」の初版(湯浅真砂子、昭和二十六年十一月)を刊行したことでも知られています。「秘帳」は、この時には殆ど話題にもならなかったのですが、有光書房から刊行された時に、週刊誌ネタになり、当局の介入を受けるなど、世間を騒がしました。初版当時このような状態になっていれば、稿料を払えない醜態など無かったかも知れません。

かつてはパクられても死もの狂いでホンモノを出そうとし、また尊い犠牲者まで産んだが、今では、読者をダマシテも儲かれば良いという御時世になつたのだから、これも逆コースの花形といえよう。


※1:要点とは言っても、実際は殆ど全文に近いです。それ程この文章は何回読み直しても面白い。この面白さが分かるようになると発禁本の世界から足を洗うのが難しくなります。


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