今回は昭和初期のエログロナンセンスと言われた時代が現出するに当たり、その先駆けとなった梅原北明を中心とした出版活動に焦点を当ててみます。 基礎の範囲を超えているかも知れませんが、登場人物と掲載書籍は地下本や発禁本に関わっていれば必ず何処かで遭遇するはずのものです。
江戸時代が終わり浮世絵艶本が下火になった明治期に爆発的流行を見たのが造化機論と総称される分野の書籍です。造化機、すなわち生殖器を解剖学的見地から論じたものです。 精緻な銅版画で口絵を飾るなど、発禁にもならずによく出版できたものだ、と感心する程です(流行の後期には流石に発禁本も増えてきます)。
明治の終わりから大正に掛けて活躍したのは、梅原北明が登場するまで最多発禁回数タイトルホルダーであった宮武外骨です。 外骨は地下本には殆ど顔を出しませんが、「手淫通」の作者とされています。
大正期に入ると小倉清三郎により相対会が組織され、性研究資料の金字塔【相對】の刊行が始まります。 相対会の影響を受けてか北野博美が雑誌【性之研究】を発刊します。 また、正統派の性研究である羽太鋭治、沢田順次郎、山本宣治等による一連の出版、 さらに雑誌【変態心理】(中村古峡、日本精神医学会)や【変態性慾】(田中香涯、日本精神医学会)が世に出ます。
純粋(?)な地下出版も明治から大正にかけて少なくありませんが、当然の事ながら、これは地下に潜行しての出版ですから、表に出ることはありません。梅原北明が世に出るまでは…
元々二流新聞の記者であった梅原北明は「ロシア大革命史」や「デカメロン」の翻訳で名を知られるようになっていたことで、 左翼文芸雑誌である【文芸市場】の編集を任されました。 大正十四年十一月に創刊された同誌は赤字続きのため途中から同人組織に変更しましたが結局巧く行かず、 債権者の福山福太郎、刊行者の伊藤竹酔、編集の北明の三者の話し合いの元、 福山印刷所内に文芸資料研究会を設置し、{変態十二史}と称する叢書の刊行に踏み切ります。 特に際立ったエロ味があった訳ではない叢書でしたが、当時はやりかけていた変態と言う言葉を巧みに使った宣伝が効果を発揮したのか、限定千部で募集を行った所五千人近い応募がありました。
この{変態十二史}が大当たりしたため、{軟派十二考}(文芸資料研究會編集部)、{変態文献叢書}(文芸資料研究会)と言った同様な叢書の出版が続くことになります。 大正一五年七月に刊行が始まった{変態十二史}は三冊が発禁になった程度ですから、大問題に発展するようなことも無く、昭和三年一月までに十五冊を発行して終了します。
{変態十二史}のヒットはアッと言うまに赤字を解消したのみならず膨大利益まで出すことになります。 その利益を山分けせず、資金として新たな雑誌の刊行を企画したのが北明です。 誌名は【変態資料】、{変態十二史}の発行名義人であった上森健一郎を同様に編集兼発行名義人として、 文芸市場社内に置いた文芸資料研究会編輯部から発行します。 大正十五年九月のことでした。
変態十二史 | 明治性的珍聞史 |
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今一つエポックメーキングな出来事は「ファンニーヒル」の刊行です。 俳優であった佐々木孝丸が訳し、文芸資料研究会から発刊されました。 名前のみ知られていたが世に出たことがなかった同書は、元々{世界奇書異聞類聚}の一編として刊行予定であったものを、 単行本として無削除のまま秘密出版するという快挙(暴挙?)に出たため好事家から喝采を持って迎えられたと伝えられています。 この二点が総ての出発点です。 文芸資料研究会からは「明治性的珍聞史」(梅原北明、大正十五年九月、大正十六年(ママ)一月)上中二冊なども刊行されています。
順調に刊行が続いていた【変態資料】ですが、{変態十二史}中の「変態崇拝史」の発売禁止をきっかけに当局の手が入り、「変態十二史」以外の無納本がバレ、文芸市場社内は大混乱を来します。 伊藤竹酔と文芸市場社で事務を担当していた樋田悦之助が十日間も検束される一方、 発行名義人の上森健一郎と事実上の首謀者である梅原北明は通いで取り調べを受ける、と言った理不尽な状態でした。 お互いの思惑にもズレが生じた結果、文芸資料研究会編輯部と共に【変態資料】を上森に譲った北明は 【文芸市場】の発行に専念することになります。
【文芸市場】に専念した北明がその内容をエスカレートさせた結果、最後の数号は総て発禁という【変態資料】以上の状態になってしまいます。 あまりにも派手に動きすぎたため官憲から睨まれることしきり、最早国内に居ることは危険と感じた北明は、 酒井潔、佐藤紅霞らと上海へ逃避することになります。
上海へ逃れた北明が彼の地で発行したのが伝説にまでなった【カーマシャストラ】です。 この雑誌は『第3巻10号』とあるように、【文芸市場】からの通巻になっており、誌名は変われど内容は延長線上にあります。 しかし、国外からの発行とあってか全く遠慮が無く、佐藤紅霞訳の『蚤十夜物語』を伏字無しで掲載するなど完全な地下本へと進化(?)しています。
文芸市場社本として知られる 「バルカン戦争」、 「ふろっしい」、 「日本猥褻俗謡集」、 「志とり古」、 「夜這奇譚」 などの稀覯本が世に出たのもこの時期です。
変態資料 二巻九号 |
古今桃色草紙 新年特集号 |
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一方上森健一郎はゴタゴタに怖じ気付いて退いていった読者と、納本せざるを得なくなったためにトーンダウンした【変態資料】のみに頼ることに不安を覚え、 前衛書房、發藻堂書院などを矢継ぎ早に創立する事になります。 發藻堂書院からは花房四郎を編集兼発行名義人として雑誌【古今桃色草紙】を刊行します。 【変態資料】は結局二十一冊刊行して廃刊になります。
北明と上森が分かれた時、上森側に付いた福山福太郎はその手腕に不安を感じ、 主に【カーマシャストラ】に寄稿していた佐藤紅霞を顧問に迎え、 文芸資料研究会を看板に雑誌【奇書】を刊行します。 ここに於いて北明の文芸市場社、上森の文芸資料研究会編輯部、 福山の文芸資料研究会の三派が鼎立することになります。
市ヶ谷刑務所を仮出獄した梅原北明は早速雑誌【グロテスク】の刊行準備に掛かります。 この雑誌は今までと異なり、エロよりもグロを前面に押し出した公刊誌として昭和三年十一月にグロテスク社から発行されます。 公刊誌故内容が薄いのは仕方が無く、このことが功を奏したのか創刊号は無事でした。しかし二号と翌年の正月号は引っ掛かり、以後数号が発禁になっています。 北明はこの正月号が発禁になったことを逆手に取り、『愚息グロテスクが急性発禁病で死亡云々』の死亡広告を新聞に出すという奇抜な行動に出ます。
一方単行本の方は文芸市場社から大部の「世界好色文学史」二冊、談奇館書局から{談奇館随筆}と題する叢書を刊行します。 「世界好色文学史」は当初三冊の予定で刊行が始まりましたが、二巻は印刷出来の日に押収されたため、秘密裏に印刷し直して頒布されたと伝えられており、三巻は結局頒布されませんでした。 {談奇館随筆}の内酒井潔の「らぶひるたぁ」、 北明自身の「秘技指南」、 花房四郎の「同性愛種々相」、 羽塚隆成の「ナポリの秘密博物館」は発禁になっています。
世界好色文学史 |
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秘技指南 | 同性愛種々相 | ナポリの秘密博物館 |
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この時期は文芸市場社が分裂した時に一旦は上森健一郎方に付いた花房四郎こと中野正人が総てを取り仕切り、 大々的に広告を打つなど、世間的には尤も注目を集めた華々しい時期でした。 所謂エログロ・ナンセンス時代の幕開けです。 しかし、北明を初めとする軟派出版界の落日は目の前に来ていました。 中野が独立したのをきっかけに、文芸市場社も衰退して行き、北明は同社を鈴木喜一郎に譲ることになります。
【変態資料】の後続誌として上森が企画した【変態黄表紙】 は宮本良を編集兼発行に据えますが、発行案内が発禁処分を受けるなどゴタゴタの末、昭和三年の十二月にようやく刊行されます。 しかし、経営が巧く行かず、第三号から経営権を山中直吉に渡し、発行所も南柯書院に移りました。 さらに、上森が居なくなった途端、急に当局の弾圧が厳しくなったため山中が経営を投げ出し、第四号発行時には宮本が経営も兼務するという無茶苦茶な状況になってきます。 この雑誌は創刊号から三号までが発禁になり、四号にはエロとも軟派とも関係ない資料で誌面を埋めます。発禁にはなりませんでしたが、終刊号になってしまいました。 南柯書院発行の単行本には「女色事師」、「恋の百面相」などがあります。
出版から手を引いた上森は東京市議会選挙に出馬し落選すると、 再び東欧書院を設立し「支那近代情痴性史」等の刊行を試みますが、結局泣かず飛ばずでそのまま消えて行くことになります。
【奇書】の創刊号と二号を無料で頒布するという剛胆な手段に出た福山福太郎ですが、 {変態十二史}の会員に無償頒布したと伝えられる「人間研究」、 佐藤紅霞の「蚤の自叙伝」が目立つ程度で、大した発展もせずに消滅することになります。
グロテスク二巻一号 | 近世社會大驚異全史 |
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【グロテスク】休刊後、北明と行動を供にしていた酒井潔が少し距離を置くようになり、 国際文献刊行会から個人誌の【談奇】や単行本の「上海巴里歓楽郷案内」などを執筆者の立場で出します。 さらに雑誌【デカメロン】や【匂へる園】にも執筆するなど、エログロ・ナンセンス時代の最後期まで顔を出します。 一方北明は史学館書局を起こし、文芸市場社時代から行っていた新聞記事の集大成とも言うべき「近世社会大驚異全史」を刊行しますが、 最早昔日の勢いは無く、出版界から足を洗うことになります。
常に上森健一郎と共にいた大木黎二は、上森が出版界から一時手を引いた後独立し、 刊行した「袖と袖」(破調荘書院)、最初の活字化と言われる「乱れ雲」、 雑誌【稀漁】(共に巫山房)、など総がて発禁になるという無軌道ぶりを発揮します。
上森派の西谷操は發藻堂書院から独立し、神波勇蔵と書局梨甫を起こし、 「イボンヌ」などの刊行を企てますが、泣かず飛ばずのまま喧嘩別れしてしまいます。
東欧書院から独立した三浦武雄は古今堂書院から「江戸文学選」を企画しますが、『千種花二羽蝶々』一冊を刊行しただけに終わります。
文芸市場社を離れて文献堂書院を起こした中野正人、巫山房の大木黎二等を同人に迎えた洛成館は、 雑誌【談奇党】を刊行します。 全八冊の内第三号を除く七冊発禁という快挙は、この種の出版では最後の花火になりました。
完璧な地下出版である{世界文学叢書}(十巻)を刊行した世界文学研究会を主宰したのが浦司若浪です。 ここも発行名義人が次々と検挙され、最後は内部分裂を起こしてしまいます。 地下本としては著名な部類に入る「るつぼはたぎる」もここから頒布されていますが、 実際の発行元が何処であるのかは不明です(※1)。
初めは軟派本の顧客であった篠崎兼三が自費で製作して主に訪問販売により売りさばいていた{世界珍籍選集}(十巻、別冊二巻)は、第六巻を頒布した段階で事件になり、残りの三巻と別巻二冊は日本文献書房の眞保三郎により続刊されることになります。 元々文芸市場社に出入りしていた眞保は、同社が出した「バルカン戦争」をすぐコピー出版するなど金儲けのことしか頭にない男です。 「ラスプーチン」などを刊行した日本文献書房は八雲井某が跡を継ぎ、 「バルカン・クリーゲ」を再刊しています。
その他、刊行案内だけで金を集めそのままドロンした悪徳業者、刊行案内を出した途端に捕まった気の毒な新米珍書屋、純粋(?)な地下出版を家業としていたまじめ(?)な業者、などが入り乱れた金まみれのエログロ・ナンセンス時代ですが、 それと平行して運営されていた赤貧洗うが如き状態の相対会が終戦間際まで続いていたのとは対照的に、昭和一桁の時代で終了してしまいます。
主に著作者、訳者として登場する名前です。
舞台美術が本業の伊藤晴雨は、雑誌【変態資料】一巻四号の巻頭を飾った妊婦の逆さ吊り写真発表(実際は無断掲載)以来、数々の責めに関する文書や絵を発表し続けたSMの元祖とも言える存在です。 戦後も【あまとりあ】などで活躍しています。 「論語通解」、「責めの話」(温古書屋、昭和四年九月)などを出しています。
同じく【変態資料】特別号の『世界性欲学語彙』でこの世界に登場した佐藤紅霞の本業は洋酒ブローカーです。 クラウスの「日本人の性生活」の訳者としても著名ですが、地下本では「蚤の自叙伝」を訳したことで知られる文献派です。
責めの話 | 責めの話伏字表 | 世界性欲学語彙 |
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今回は綴じに関する用語です。
「増補・編集印刷デザイン用語辞典」(関善造、誠文堂新光社、1990年5月)を参考にさせて頂きました。
※1 | 片編集の 世界文学叢書と「るつぼはたぎる」 で私見を述べています。 |