昭和四年末から七年に掛けて秘密出版された「世界文學叢書」(世界文學研究會)十冊の完全な解題を今まで見た事がない。 同叢書刊行後間も無く発行された【匂へる園 第二輯】『現代軟派文獻大年表』(風俗資料刊行會 昭和8年10月5日)の[軟派出版所と其書目]によれば、 「世界文學研究會(浦司若浪)昭和四年八月頃、小石川區大塚町に創立、 浦司若浪の名に依り軟文學の復刻ものを世界文學叢書として刊行、 會員組織で會費五圓隔月一回位に四六判三百頁程度のものを出してゐたが非合法的出版方法を採ってゐたようで出版書の内容も會員以外では 判然(ママ)しない。 昭和六年十月頃には石山哲夫(小石川區小日向水道町)の名を用ひている」 として、以下の書目を列記している。
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このリストは現物を見ながらではなく、主に刊行案内から作成されたようで、一部事実と異なる部分が見受けられる。その点も含めて少し解説を加える。
第一篇は当初「紫あけび」「印度性典 愛戀秘文」の二編で案内が出たが、第一號の前書きたる[申譯と御願ひ]に
「…去る十二月二十日午前六時十分に私の住居の戸を叩く者有り、…」
で始まり
「…私の一番落膽したのは其處には印刷なすべく準備してあった紙型、鉛版が堆高く積まれてあるではありませんか…さて此樣な事情で
原書原本は皆とられてしまひましたが、併し紫あけぴ(ママ)の原書だけはやうやく手に入れましたので本書に掲載する事が出来ました。…」
とあるように、官憲の手入れがあり発刊が不可能になった為、内容を差し替えた旨の言い訳が続く。
印刷所でも無い所に何故鉛版が置いてあったのかは、不思議と言えば不思議である。
この手の業者の言葉程当てにならないものも無いが(手入れが実際にあったか否かはさて置き)、発刊が遅れたのは事実のようであるから、刊行年月は十二月ではなく、翌年が正しいのではないかと思われる。
訂正:この度、「戦前の刊行案内と通信ビラ」作成のため、各種のチラシを見直していたのであるが、主宰の浦司若浪が印刷工場を経営していた旨のビラが出て来た。出て来たと言うよりは、最初から手許にあったのであるが、良く読んでいなかったということである。このことにより、先のお詫びの文章が、俄然真実味を帯びてきたことになる。折角の資料も宝の持ち腐れ、館主の早とちりと思いこみ、いい加減さを露呈することになってしまった。お詫び方々訂正致します。(平成十四年二月十七日)
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第三篇の刊行案内は「東海道五十三次 膝摺毛」「ルスの肉戰」の二編であるが実際の刊行は上記の物である。
第五篇は上記の標題で刊行案内が出たが、実際は和綴の「大和三國誌」(『通俗堪麁軍談第一編』〜『第十三編』)に変更されている。
この編のみ装幀を替えて和綴にした理由は不明であるが、他の編と異なり内容が単一の和物のため、敢えてこのようにしたものと推察する
(他編の例から見て、発刊時の案内が出てくれば判然とするであろう)。
尚、本書のみ和綴の為か「るつぼはたぎる」(河出文庫 性の秘本コレクション4、河出書房新社)の解題で、鈴木敏文氏は同書を叢書の別巻のように解説しているが、
当館所蔵本の見返しには、最初の(?)所有者が書いたと思われる『世界文学叢書第五巻』との書き入れがあり、
刊行案内と実際の刊行物が異なるのは他の編にもある本叢書の特徴の一つでる。
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また、「世界文學叢書」刊行後の世界文學研究會を引き継いだ安部哲夫が、
最初の刊行案内である「聲明書」の中で叢書の第一回から第六回までを列記しているが、第五回として本書を明示していることからも、間違い無いと思われる。
「世界珍籍選集」と題する、ほぼ同じ時期に刊行された同様の叢書10巻にも上下ニ冊の和装本があり、こちらは正真正銘の別巻であることから、それらと混同しているのではなかろうか。
世文更新第一回「聲明書」 |
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第八篇は不詳となっているが【世界性愛文学選集】(【あまとりあ 臨時増刊】あまとりあ社 昭和26年8月15日)[大正・昭和に流布された 現代艶本目録抄](南名散史編)で
「るつぼはたぎる 昭和六年刊、世界文學研究會叢書の第八篇にあたり、B判クロース装二七六頁もの、表紙は無地」
と記述されており、管見の範囲では、以後の解題は全てがこれを孫引きした形で発表されている。
しかし、世界文學叢書の第八篇は正しくは「るつぼはたぎる」では無く、以下の三編で構成されている。
赤のクロース裝幀で口絵にバイロスの「化粧台物語」から四葉、隈写真を二葉使用している。 『淫書開好記』は第七篇の続きであり、 『メッシナの宮殿』は、本題は勿論、副題の『弄肉』や『シセラ侯爵婦人』等の題名でも何回もリバイバルされている艶本の常連である。 『泥にあがく』も『メッシナの宮殿』程ではないが、何回かリバイバルされている作品である。 扉には「性界聞覺草書 蜂之巻」とあり(世界と性界を引っかけ「せいかいぶんがくそうしょ」と読ませるのであろう)、他のものとは異なっている。
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この間の事情は本書に添付されたチラシ『會員の皆様!』の中で説明されているが、
「略…同一の體裁方法にては連續的刊行として、其の筋の監視が一倍嚴重であります故、今回は表面の装幀は之を施しません、即ち世界文學叢書の背文字はこれを除き、且本會の名義は少しも使用致しません、何處の發行やら不明のように致しました。」
と述べた後、書名を「性界聞覺草書」とする事と内容に就いての記述が続く。
発刊が同時期(昭和六年八月頃)であり、両方とも世界文學研究會から頒布されたのも事実である上、上記案内のように、刊行者自ら発行所を意識して隠す体裁をとったため、
当時の新聞誌上を賑わした捕り物騒ぎも重なって情報に混乱を来たしたのではなかろうか。
その点では不明なものは不明としたままで解説した先の『文獻大年表』は正直だと言える。
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第九篇の「印度古典」は、「印度性典」の間違いである。
第十篇の刊行案内は「大奥秘帳 吉田御殿」「千夜一夜物語 アラビアンナイト」の二編であったが、上記の物が刊行されている。
叢書発行人の当初の名義は浦司若浪であったが、名義人が刑務所に拘束される度に、
第五篇は安部哲夫、第七篇は小澤清麿、第八篇は秋月泰(浦司の夫人)、
第九、十篇は石山哲夫と変わり、結局會そのものは内部分裂もあり空中分解してしまった。
その後、世界文學研究會は安部哲夫名義で継続されたが、詳細は不明である。
尚、先に引用した安部哲夫の「聲明書」には第九篇と十篇の名義人である石山哲夫が、関係者が獄に繋がれているのを良いことに、
事務所まで移転して會を私し、会員から送金された代金を着服、身をくらましたと憤慨している。
事の真偽は藪の中であるが、確かに第十篇の刊行案内では『本會』という言葉は何回か出てくるが、世界文學研究會の名称は無く、
石山哲夫の名前だけが大書されているのを見ると、頷けない事も無い。
「るつぼはたぎる」が世界文學研究會から頒布されたのは事実であるが、前述した通り、叢書の第八篇であるとの解説は間違いである。 【造化 7】(造化研究会 昭和30年1月25日)で青山繁がその一部を復刻した折 「本書は、昭和初頭の例の世界文学研究会本で活字化されたのが始めてで、 その後、「童貞」「さすらい」などと二、三標題をかえて発表されたが、それらはいずれも内容の一部を抜萃した骨ヌキき本である。」 との解説をしており、世界文學研究會が初出のように紹介している。 ここでは叢書との関連を述べている訳ではないが、この解説が先の【世界性愛文学選集】の信憑性を後押しした形になってしまった。 しかし、世界文學研究會が本書を頒布した時の案内文を次に全文転載するが、事情は少し異なる。
拝啓 残暑の候會員各位には益々清榮の段御喜び申上ます。 扨て今回或る機會により非常に珍しい物が小部數入手致しました。 題名は『るつぼはたぎる』といふ物です(ママ) 本書は華族のお坊ちゃんが出資して 某友人に頒布した物だとかにて非常な珍本です。 著者は谷○潤○郎さんだといふているが、私には信じられません。 併し一流の文士であると云ふ事丈けは其文章に見ても判然たる物です。 頁數は二百七十六頁にて輕快な洋裝幀丁であります。(組方は同封の物參照) 私は斯くの如き珍本を皆様に御送り出來まする事を喜んで居ります。 但本書に挿入した繪八枚は池田英泉の筆で本會にて特に添付致した物です。 兎に角一字一本の伏脱ない、素人出版物としては實に珍しい物と思ひます。 御注文もないのに御送致しましたのは餘りにも珍しい物ですから 特殊の方々に丈け御恩報じの一助にもと思ひまして送本致した物です。 誠に恐入りまするが御不用の際は直ちに局に通信郵便にて 受取拒絶と申してやって頂きとうございます。 何分にも部數が四十部といふ限られた物ですから 御返送次第又他の方に御送り致したいと思ひます。 本書は決して五圓五十銭位では御入手の出來ない物だと思ひます。 若し御入用の際は一時も早くお引取を御願ひ申上げます。 終わりに去る八月二十日に浦司若浪氏が市ヶ谷刑務所より 無事出所致しました事を御報告申上げ不在中の御厚情に對し厚く御禮礼申上ます。 八月下旬 世界文學研究會 安部哲夫 |
先ずは頒布が昭和6年8月である事が判る。 頒布部数の四十部が正しいか否かは甚だ疑問であるが、 元々の発行所が世界文學研究會とは異なることを示唆しているのが判る。 華族のお坊ちゃんが誰で、某友人とは誰であるのかはこの文章からは判らないが、 そこから四十部の販売委託を受けたらしい事が読みとれる。 原本を被見する限りでは、表紙の造りは「世界文學叢書」と似ているが、 本文の組み方は明らかに他の叢書とは異なっており、その事を裏付けているように思われる。
また【談奇党 第三号】の口絵に掲出のエロ本出版検挙の新聞記事にある
「徒然草」と題して在外邦人の為に頒布しようとして当局の手入れを受けたのが
「るつぼはたぎる」である所からも、世界文學研究會の刊行とは考えにくい。
但し、この場合は印刷屋による海賊版の横流しが事件の発端であるから、何とも言い難い部分はあるのだが…。
実の所、依託に見せかけた仮託との考えも完全には捨てきれないでいる。 再三登場している安部哲夫の「聲明書」に「「淫書開好記」「同續篇」「るつぼはたぎる」を發行」とあるのが気にはなる。 しかし、叢書の八篇と「るつぼはたぎる」の二冊をほぼ同時に刊行するだけの余裕が当時有ったとも考え難いが…。
以下に、当館所蔵の「るつぼはたぎる」の原本、及び異本のデータを掲載する。
るつぼはたぎる(原本) | |||||
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判型 | 頁数 | 造本関連 | 書影 | ||
四六 | 276頁 | 布クロース (クリーム色表紙) |
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著者 | |||||
刊行 | |||||
刊年 | 昭和6年8月 | ||||
注記 | |||||
見出 |
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発禁本曼陀羅 | ||||
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判型 | 頁数 | 造本関連 | 書影 | |
四六判 | 303頁 | ハードカバー |
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著者 | 城 市郎 | |||
刊行 | 河出書房新社 | |||
刊年 | 1993年9月 | |||
注記 | 解説と併載 「有名文士匿名作『るつぼはたぎる』」 | |||
見出 |
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各種資料から書誌的な記述のあるもののみ記述する。
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参考文献 | |||
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現代軟派文獻大年表 匂へる園 2 | 風俗資料刊行會 | 昭和8年10月(第二刷) | |
あまとりあ臨時増刊 世界性愛文学選集 | あまとりあ社 | 昭和26年8月 | |
造化 7 | 造化研究会 | 昭和30年1月 | |
発禁本曼陀羅 | 城市郎 | 河出書房新社 | 1993年9月 |
性の発禁本 2 | 城市郎 | 河出書房新社 | 1994年9月 |
るつぼはたぎる 性の秘本コレクション4 | 監修 城市郎 | 河出書房新社 | 1999年7月(3刷) |