一般に地下本や発禁本は稀覯本であると言われているが、このことは正しいとも言えるし、正しくないとも言える。そんなことを少し書いてみようかと暫く前から考えていて、手に付いていなかったのであるが、昨夏のC堂の目録に「論語通解」(伊藤晴雨、昭和五年)が出たり、それから時を経ずして「イヴォンヌ」(書局梨甫、昭和四年九月頃)を入手したりと、稀覯本に関連する話題が身近で集中したので、勢いに乗って書こうと思ったが、何故が尻すぼみになってしまった。年が明けてから館内のリニューアルを行ったのを期に、駄文第一号として、改めて書き直すことにした。
稀覯とは読んで字の如く、稀に出会うことであるから、普通は現存する絶対数が少ないものが、稀覯性が高いといえる。絶対数が少ないのは、限定本として刊行されたため、最初から数に限りがある場合と、何らかの理由により数が減ってしまった場合とがある。両方の条件が重なっていることもある。数が減る原因としては、刊行からの時間の長さに比例して世の中から消えて行くという一般論の他に、先の大戦による焼失が大きいと考えられる。東京の場合、大正中期以前のものに就いては、震災という特殊条件も見逃し難い。これに加えて、地下本や発禁本の場合は、官憲の介入という問題が絡んでくる。戦前に発禁処分を受けたものは、立て前としては世の中に存在するはずはないし、印刷や製本の過程で押収されたものは、物理的に存在する余地がない。
残存部数が少ないことにより、稀覯性が高くても、それだけで価値があるかというと、それはまた別の問題である。勿論、それだけで意味を持つものもあるが、一般には、書かれている内容や装幀、書誌的な位置付け、原本体裁の維持などの諸条件が重要である上に、数が少ないことが稀覯本としての価値を決めると言って良いであろう。翻って、地下本と称される分野の本や雑誌に、それらに相当する付加価値があるであろうか。多くの場合、それは存在しない。ただ単に見る機会が少ない、と言うだけである。嘗ては、内容を公表することが不可能であったため、好奇心という付加価値があったが、現今はそれすら無くなっている。表題を稀覯本とせず、稀覯性とした理由でもある。
{変態猥褻往来}と題する叢書がある。昭和三年の初頭に文芸市場社から案内が出た十二冊からなる叢書であるが、実際に刊行されたのは第一巻の「夜這の巻」(刊行時の書名は「夜這奇譚」)のみである。地下本の研究家でもあった故斎藤夜居の「コレクトマニア奇譚」(愛書家クラブ発行所、昭和四十五年八月)に一章を設けて解説しているが、その中で以下のように述べている。
文芸市場社本には今日でも入手し易いものと、仲々披見し難いものがある。…略…これから紹介する『夜這奇譚』は知られている割合には残存部数が少なくて、既に発行当時から珍本視されていたという。書狂城市郎さんも最近お会いした折にきいたがこの書は見たことも勿論読んだこともないと云った。…略…原本は入手できなかったので、以下この愛雨恵雄文庫によってご紹介する。
つまり、昭和四十五年の時点で、斎藤も城氏も「夜這奇譚」の原本を見たことが無かった訳である。この二人が見たことがない、と言うことは、実際に目にする機会が少なかったのであろう。時を経て、平成の現在、別冊太陽「発禁本」(構成・米澤嘉博、平凡社、平成十一年七月)に、城氏のコレクションとして書影が載っているので、その後入手したと思われる。近年、他の蒐集家の蔵書を見たこともある。目録でも何回か見ている。何より、当館でも二冊所蔵している(一冊は題簽が破れて剥がれているが…)。三十年前に、著名な蒐集家や研究家が見たことがないものが、今や無名の蒐集家の手許にも何冊も存在していることになる。管見の範囲で既にこの様な状態であるから、実際はもっと多くの蒐集家が架蔵していると考えられる。
このことは、見たことがない、と言う言葉の意味を、もう少し考えてみる必要性を示唆している。本当に存在しない、或いは数が少ないから見る機会に恵まれないのか、ただ単に公の場に出ないので見掛けないのか、は稀覯性を考える上で重要なポイントである。前々回の「雑誌蒐集遍歴」でも少し述べたが、館主がこの世界に興味を持ち始めた三十年程前には、昭和三十年前後に刊行された雑誌【生活文化】、【造化】、【新生】の各々の揃いは入手不可能、とまで言われていたが、現在それらを入手するのは、【新生】を除けば、それ程難しくはない。価格も相当安くなっている。 しかし、それらの雑誌が発行されて以降、昭和の時代は殆ど目にしなかったことも事実である。従って、当時の解説で入手不可能とされていたのは間違いではなかったのであるが、絶対数が不足していたことが理由ではなかったことになる。そもそも、【生活文化】は当初千名限定で公刊誌【あまとりあ】三巻二号(あまとりあ社、昭和二十八年二月)に会員募集を出し、創刊後も毎号広告を打っていたのであるから、同部数或いはそれ以上出たことは確実であり(地下に潜行してから刊行されたものは、それ程出ていないと思われるが)、それが二十年もしない内に、世の中から無くなることなど考えられない。内容の過激度などから、単なる摘発雑誌と異なり、公に処分し辛かったことと、摘発を受けたことによるプレミア期待の保持が、流通を阻害していたのではなかろうか。その内に、世間で稀覯雑誌化してしまったため、ますます市場に出難くなってしまったものと思われる。
近年に於ける規制の緩和と、当時の現役世代の引退により、それら私蔵されていたものが徐々に表に出てきた結果、少し時間を掛け、目録の視野を広げれば、入手の機会が訪れるという状態になり、現在に至っている。勿論、今でも、希望すれば何時でも入手可能と言うことではない。しかし、年に何回か目録で見掛ける状況からは、丸一年掛ければ何とか成りそうな気はする。従って、【生活文化】は最早稀覯雑誌とは言い難い。【造化】の場合は、【生活文化】摘発後に創刊されたため、もう少し稀覯性は高いであろうが、蒐集が難しいものでは無くなっている。尤も、コレクターの世代交代が一巡して、現役の納まるべき所に納まってしまえば、また動かなくなる可能性はある。
単行本の場合も同様である。戦後の活字本であれば、少なくとも五百部から千部は出ていると思われるが、その部数から想定される残存数の割には余り見掛けない。その代わり、出る時はまとまって出る傾向がある。蔵書は一代限りとよく言われるが、これも世代交代の成せる業であろう。数が少ないのではなくて、動かないだけである。ガリ版本の場合は状況が少し異なるかも知れない。こちらの場合は、出自によっては本当に数が少ないものもあろう。蒐集が目的でなければとっくに捨てられている可能性も高い。本と呼ぶにはためらうものがあるが、ためらいが大きくなるようなもの程、稀覯性が高いと思われる。しかし、それらを稀覯本と呼ぶには更なるためらいが湧いて来るのも事実である(珍しい本とは言えようが、普通は稀覯本とは言わない)。
これらのことから言えるのは、戦後のものは動かないだけで、本当に数が無いものは少ない、という点である。一方、戦前のものは状況がまるで異なる。初めに述べたように、戦災という状況を経ているが故に、あらゆる出版物が灰燼に帰している。勿論、被災していない地域もあるし、疎開が上手く行ったケースもあろう。しかし、ある特定の本が難を逃れ得たかどうかは、正に運だけである。加えて、最初に述べた地下本や発禁本の特殊性もある。発行前に処分される発禁本が存在すること自体が本来はおかしいのであるが、現実には発禁本という蒐集分野があり、少なくない数のコレクターが存在する。
このことは、立て前と現実が異なっている、と言う事実の表出に他ならない。多くの場合、発禁が予想されるものは、納本前に発送してしまうため、少なくない数の本が購読者の手許に渡ることになる。実際の部数は個々に異なるが、多ければ千部を越えるものもある。時が経ち、戦災を経たとは言え、千部有ったものが十数部しか残っていないというのは考えずらい。流石にこれでは稀覯性という点で見劣りする。
当時、限定版とされた発禁本の、実際に頒布された部数の概略を記録したものが、【談奇党】第三号(洛成館、昭和六年十二月)の『珍書屋征伐』に掲げられているので、書名が正確でないものもあるが、そのまま転載する。
書名 限定部数 頒布部数 變態十二史 一千部 約三千部(最後は千二三百部) 變態資料 一千部 約二千三百部(最後は一千部) フアンニ・ヒル 五百部 約一千六百部 明治性的珍聞史 二百五十部 約二千部 くんえん・ひわ 五百部 約一千部 オデツトとマルチイヌ 五百部 約八百部 アナンガ・ランガ 四百部 約八百部 蚤の自叙傳 四百部 約七百部 ダスフユンフエツク 四百部 約二百部(残部押収) ウインの裸體倶樂部 四百部 約千二百部 女いろごと師 三百部 約六百部(印刷千余残部押収) イヴオンヌ 四百部 不詳 世界好色文學史 一千部 一千三百部 秘戯指南 限定なし 三千五百部 らぶ・ひるたあ 限定なし 二千八百部 同性愛の種々相 限定なし 一千二百部 千種花双蝶々 三百五十部 一千七百部 袖と袖 四百部 七百部 覺悟禪 四百部 六百五十部 珠林奇縁 五百部 三百部(残本押収)
限定部数より頒布部数の方が多い、というような些細なことは置いといて(どこが些細なことじゃ!?)、実頒布部数の少ないものが今日でも稀覯本扱いされているのは、当然と言えば当然である。この頒布部数に、八十年近い歳月と、戦災を掛け合わせると、どの程度が残存部数の目安と考えられるであろうか。同じ部数を発行した戦後のものに比べれば、格段に少ないとは言えるが、稀覯性が高いと言えるかどうかは、個々により異なるだろう。
問題は、頒布前に押収された、とされるものである。頒布前とは、見本刷り以降の印刷中、製本中または製本後文字通り頒布の直前である。この場合は、根こそぎ持って行かれる場合もあれば、何らかの理由により押収洩れになることもある。洩れがあれば、その少部数が稀覯本となろう。さらに、今日まで耐えて来た年月を勘案すれば、稀覯性はますます高まると言える。
地下本に於ける、稀覯本らしい稀覯本と最初に出会ったのは、和装の小型本「株林奇縁」(文芸市場社、昭和四年九月)である。今や曖昧になってしまったが、これは発禁本の蒐集を始めてそれ程経たない時期に、普通の目録で注文して購入したように記憶している。雑誌【猫目石】3号(プレス・ビブリオマーヌ、1963年7月)の巻頭に書影入りで解説が載っているのは知っていたのだが、印刷中に押収、とあるので入手は難しいと考えていた一冊である。送って来たものは、傷み具合から見て、【猫目石】に載っていたもの、そのものであった。当時、世間は狭いな、と思うと同時に、やはり絶対数が少ないのであろう、と得心した次第である。
古書店から探求書を要望されて送ったら、即座に返事が来たのが「おんな色事師」(ダフェルノス、宮本良訳、南柯書院、昭和四年七月)であった。判型が枡形という変わった造本であったが、天金を施していても、本文用紙がザラ紙という、予想もしていなかった作りに唖然としたものである。あちこちの解題本で解説されていた小型の折り本「志とり古」(カーマシャストラ協会、昭和三年四月頃)も同じ古書店から案内が来て購入した。この二冊は必ずしも稀覯性が高いとは言い難いのであるが、さらに追加の案内が来たコールテン装の小型本「日本猥褻俗謡集」(文芸市場社、昭和三年一月頃)には驚かされた。書名のみは知っていたが、解説をしたものの記憶が無く(案内に解説の断片が付いていた)、購入すべきか否か悩んだものである。案内には残存数は二十部ぐらいではないか、と書かれており、文芸市場社本である、ということで結局購入はしたが、市販の解説書に頼っている危うさを実感した思いがある。
当館の地下本の多くを購入した古書店では、入荷の度に連絡が来たので、確認に出向いた。「ばるかん戦争」(日本文献書房?、昭和三年末頃)や「ふろッしー」(文芸市場社、昭和三年)、「るつぼはたぎる」(世界文学研究会?、昭和六年八月)などが、そのようにして架蔵されていった。中に、「風雲秘集」と題する四六倍版、紺色コールテン装、本文二度刷りの豪華本があった。立派な造本であり、所収作品と作りから昭和初期のものであろうことは見当が付いたが、見たことも聞いたこともない代物にまたもや困惑した。これだけの本の解題が今までになかったのが不思議なくらいであるが、最近その正体が判明した。雑誌【稀漁】の発行者であり、「乱れ雲」(巫山房、昭和四年)や「袖と袖」(破調荘書院、昭和五年)などを刊行していた大木黎二の手になるものであった。この世界はまだまだ奥が深い、と改めて感じ入った次第である。
特異であったのが「論語通解」である。古書店の目録には、この書名はなく、現物を見て驚愕した記憶がある。「これ、目録に載ってましたっけ!!」と思わず聞いてしまったが、伊藤晴雨とは書いてあったが、異なる書名で載っていた。ここ数年のように、主に目録買いだけで済ましていたら、絶対に手に入らなかったものである。古書店にはこまめに顔を出し、お近づきになるべきである、と言う教訓と同時に、もっと体を動かせ、と言う反省でもある。「論語通解」は、五十部制作して全冊押収とされていたが、早くから一冊のみ確認されており、近年になって三冊追加された(詳細は天下一本「論語通解」参照)。著名な人が何人も一冊しか存在しない、と発言していても、安易に信じ込むことの危うさを示唆する、もう一つの教訓である。一度固定化した情報(定説)は、なかなか崩れないと言うことであるが、稀覯性の高いものに就いては、或程度やむを得ないのかも知れない。
紹介される度に、昭和艶笑文学の最高傑作、という枕詞が付く「茨の垣」のガリ版原本も、かつては全く見掛けなかった。前出の斎藤夜居が所有していた原本のコピーを、ある人経由で譲り受けて所持はしていたが、本物を見る機会はなかった。前後編の二冊構成であるが、戦後の刊行で百部も頒布されているので、現物はともかく、目録で見掛けても不思議はないのであるが、管見の範囲には無かった。これを最初に入手した経緯は今現在思い出さないが、二組目は第三回「地下本の価格」に書いたように、古書展の会場で拾った。近年入手したコレクターも知っているので、これも所蔵者の世代交代が始まっているのであろう。頒布の経緯からも、一次所有者が簡単に手放す性質のものではなかったので、今までは流通していなかったものと推測される。そのような状況から、今後はもう少し見掛けることが予想されるので、稀覯本の仲間からは外れるかも知れない。しかし、「茨の垣」には、その前身となる「小説茨の垣」なるものの存在が現在は分かっており、こちらは二十部しか頒布されていない、とのことなので、相変わらず稀覯性が高いと言える。
この文の最初の草稿を書いている時、朗報が飛び込んだ。文頭に書いた「イヴォンヌ」を入荷した旨の通知があったのである。頒布前押収で、警察に拘留されていたため、発行人ですら現物を見たのは昭和も終わり近くになってからとの話を聞いたことがある。何故そのようなものが残っているのか、と言う疑問の方が余程興味深いが、何冊か現存しているのは事実である。十数年前に一度話題になったことがあり、それと前後して、古書店から入荷の連絡があった。申込者が多いので、入札にする旨の案内があり、応札したが届かなかった。後日談によれば、六人が応札したそうである。今回の通知の対象は、その時に落札出来なかったものである。もう少し安いのが理想ではあるが、想定した最高額までは行かなかったので、即申し込み、書架に納まった。他に二冊所在が分っているので、最低三冊は現存することになるが、まだ何冊かはありそうな気はする。
何故十年以上前に落札されたものの入荷通知が来たかと言えば、当時の落札者が亡くなったからである。所蔵者が判明し、旧蔵者との間で話し合いがまとまる幸運に恵まれれば別であるが、通常稀覯性の高い本を手に入れるには(不謹慎な物言いであるが)、所蔵者が経済的な理由などで手放すか、亡くなる以外に手段がないのが現実である。今回の通知も、目録に対する注文と前後して届いたのであるが、他の四人ではなく、何故館主の所に来たのかの理由は聞いていない。旧蔵者と同じような理由であったとすれば、架蔵できた喜びとは別に、色々な意味で心弾まない状況と言える。