一般に梅原北明を語る時は、雑誌【文芸市場】の創刊に関わる前後の話題から始めるのが通例である。処女出版とされていた「殺人会社 前編」や、軟派系の初訳とされている「全訳デカメロン」が刊行された大正13年末から14年辺りが該当する。しかし、今回はそれを更に遡り、アーリー北明とでも言うべき時代全般の話をする。
現在判明している最も古い梅原北明著述の文章は、雑誌「性と愛」(性愛社)の2巻10号(大正11年10月)に掲載された『戀愛と性教育に關して鎌田文相と語るの記』と題したインタビュー記事である。記事の冒頭に「先日、性愛社の丹潔さんが來られて、右の如き標題に就いて是非訪問記を書いて呉れいと賴まれましたものですから
」とあるように、性愛社に勤めていた訳ではなく、この時の肩書きは萬朝報記者である。
戦後も多少落ち着いた昭和29年に、膨大な資料が残っているとされた性体験手記「高資料」の一端が雑誌【生活文化】10号(生活文化資料研究会、昭和29年2月)に発表された。龍膽寺雄が関わっているのではないかと噂されながらも、長い間幻の性資料とされていた「高資料」であるが、その出自の発端となった雑誌として「性と愛」の名前が出た。性体験記録集の大物の一つとされていた「高資料」と北明の接点がこのような所にあるというのも面白い。
次に古い文章は、【少年少女 面白世界】(活動社)という少年少女向けの読み物雑誌の3巻8号(大正13年8月)に収載の『奇妙怪異』の角書きがある『物を言ふ時計』と題した物語である。純粋な創作であるのか何かの翻案なのか(欧州の童話辺りに原話がありそうであるが)は判然としないが、少年少女向けの雑誌と云うのは意外であり、盲点でもある。 この号には北明の中学時代の同窓であり、後に雑誌【文芸市場】が創刊された以降、文芸市場社を手伝うことで、軟派出版の世界に足を踏み入れて行く青山倭文二も『王子と乞食』(翻訳?)と『鐘嫌ひな尼さん』の二編を書いているので、北明との浅からぬ因縁を垣間見る思いである。
それにしても、この雑誌の対象読者はどう見ても現代で云えば小学校中学年から高学年であるし、文体がそのことを物語っているが、漢字の使い方は現代の一般向け雑誌と何ら変わらない。寧ろ旧字を使用している分、より難しいと言えるかも知れない。勿論総ルビではあるのだが、この積み重ねが現代人との漢字力の差になっているであろうことは想像出来る。国語教育の在り方を考えさせる一事でもある。
文部大臣に性教育に関するインタビューをしたり、子供向けに物語を書いたり、節操がないと云うか何と云うか、実に忙しいが、この当時から、後々執筆者として独立することを志していたのであろうか。何れにしても、名前が売れるまでは何でもこなす所から始めないと、売文で食べて行く事が難しいのであろう。
「殺人会社 前編」 |
その後、北明の名前で上梓された単行本がアカネ書房から大正13年11月に出した「殺人会社 前編」である。四六判で318頁のそれなりの本ではあるが、仮綴でアンカットのため傷みやすく、残存部数もそれ程多くはないと推測される。従来、この単行本が北明の名前が使用された最初のものであるとされていたが、前述のように、それ以前に既に使われている。
この「殺人会社 前編」は初めて北明を使用したのみならず、北明の処女出版とも言われて来た。 しかし、近年になり、これ以前に上梓された単行本の存在が明らかになっている。書名は「性教育は斯く実施せよ」と「女子春秋」の二冊である。何れも朝香屋書店から刊行されており、前者が大正13年7月、後者が大正13年10月の発行である。「性教育は斯く実施せよ」の著者はマーガレット・サンガーで186頁、「女子春秋」はハバロック・エリスで326頁、どちらも四六版の角背である。但し、訳者名は烏山朝夢となっており、この烏山朝夢が北明のことである。烏山朝夢が北明の別名であることの証明は文末に記載した。
その後、北明名義の「殺人会社」を挟んで、再び烏山朝夢名義で矢口達との共訳書「児童愛」(朝香屋書店、大正13年12月)を出す。著者はマリー・ストープス、四六判の角背で表紙もやや薄手の79頁、全体としても薄っぺらな冊子である。
性教育は斯く実施せよ | マーガレット・サンガー 烏山朝夢訳 | 大正13年 7月 | 四六判、186頁、函 |
女子春秋 | ハバロック・エリス 烏山朝夢訳 | 大正13年10月 | 四六判、326頁、函 |
児童愛 | マリー・ストープス 烏山朝夢訳(矢口達と共訳) | 大正13年12月 | 四六判、79頁 |
この「児童愛」の原書は「Wise parenthood; a practical sequel to "Married love." A book for married people.」の第5版と思われるが、「女子春秋」と「性教育は斯く実施せよ」は確認が出来ていない。「女子春秋」は後に「女子性典」に改題されるが、その遊び紙には「Sexual Knowledge for the Young Worman
」と記述されている。但し、このタイトルの書籍はエリスの著書には見当たらないので、副題のようなものかも知れないし、ただの宣伝文かもしれない。何れにしても、原著者の三人は性を巡る状況下では著名な人物である。性科学の創始者とされるエリスは言わずもがなであるが、サンガーもストープスも女性解放の立場から避妊の必要性を説き、産児制限(正しくは調整)を提唱し、大正、昭和の日本にも大きな影響を与えた。
翌大正14年になると、南欧芸術刊行会名義で刊行した「全訳デカメロン」上下二冊が北明の名を世に知らしめることになる。四六判で各巻700頁前後の大冊、上巻は4月、下巻は10月の初版が発禁になったため、12月に訂正再版を刊行している。発行名義になっている南欧芸術刊行会の実態は朝香屋書店であるため、同所で刊行した旨の解説もあるが、間違いとまでは云えない。但し、混乱の元ではある。本書は名訳というよりは、北明のプロモーションによって有名になった。時は丁度、作者であるヴォッカチオの没後五百五十年目に当たっていたため、ヴォッカチオ五百五十年祭なるものを大々的にぶち上げ、イタリア大使を招待するなどして盛り上げた。五百五十年記念の行事は何も北明だけが行った訳ではなく、学術的なものとして、京都大学内で開催された京都文学会主宰の記念講演もあるが、派手さと世間受けでは北明が圧倒している。北明は、このことでイタリア大使から勲章を貰っているが、直ぐにどこかの女給に与えてしまったらしい。
「全訳デカメロン」と前後して大正14年5月に出たのが杉井忍との共訳である「露西亜大革命史」(エ・エル・ウイリアムス著、朝香屋書店)である。「デカメロン」と「露西亜大革命史」では内容が対極にあるように思えるが、北明の中でどのように折り合いが付いているのかは判然としない。赤と桃色は共に反権力であるとの括りも出来るが、当時の北明にそこまでの意識があったかどうかは疑問である。結局、この出版によりプロ作家との繋がりが強くなって行き、プロレタリア文芸誌としての【文芸市場】の創刊に至ることになる。
殺人会社 前編 | アカネ書房 | 大正13年11月 | 四六判、318頁、アンカット |
全訳デカメロン 上巻 | 南欧芸術刊行会 | 大正14年 4月 | 四六判、674頁、函 |
同 下巻 | 同 | 大正14年11月(改訂再版) | 四六判、779頁、函 |
露西亜大革命史 | 杉井忍共訳、朝香屋書店 | 大正14年 5月 | 四六判、322頁、函 |
過去に誰も語らなかったと思われる烏山朝夢なる名前であるが、これらの訳書以外で使用が確認できたものが二箇所ある。一つは【文芸市場】創刊号(文芸市場社、大正14年11月)の表紙裏に掲載されている叢書「世界奇書異聞類聚」の刊行案内である。同叢書は国際文献刊行会(実態は朝香屋書店)から刊行された12冊の叢書であるが、その5巻「ファンニ・
北明には執筆者としての顔と出版人としての顔があるが、立場に依って色々な名前を使用している。梅原北明が最も多用されているのは当然として、本名の梅原貞康や烏山朝太郎も良く知られている。特に烏山朝太郎は【談奇党】3号(洛成館、昭和6年12月)の『現代猟奇作家版元人名録』でも北明の別名であると明言している。この烏山朝太郎と酷似していて北明と何らかの関係がありそうな烏山朝夢を別人と見るのはかなり無理があり、素直に同一人物とするのが至当であろう。「世界奇書異聞類聚」の案内は直ぐに変更されているので、訳者が決まるまでの繋ぎとして仮に使用されたものであろうし、【変態資料】は北明の名前で別の記事が載っているため、全部で著者名が記載された記事が五本しかないこともあり、同じ筆者であることを嫌って昔のペンネームを用いたものと考えられる。
「女子春秋」「女子性典」「女子性典(東京書院版)」 |
これらは状況証拠からの推測であるが、推測を確定する事実が他ならぬ「女子春秋」自身にある。「女子春秋」はこの手の書籍としては売れたようで、初版から二ヶ月後の12月には15版に及んでいる。その後の経緯は不明であるが、所見本では昭和3年7月の20版が「女子性典」と改題され装幀も一新されている。紫の表紙に水色の角背であったものが黒の丸背に変わり、本文用紙に薄手のものが使用されたため束も半分となり、まるで異なる本のようである。発行所は同じ朝香屋書店であるが、発行者が大柴四郎(朝香屋書店主)から伊藤敬次郎に変わっているので、朝香屋の本家が廃業した後、暖簾を継いだ伊藤竹醉の出版であることが分かる。この時の訳者名が烏山朝夢ならぬ梅原北明になっている。
書名や訳者の名義を改変したのがどの版からかは判然としないが、竹醉が朝香屋を継いだ後であろうことは推測出来る。昭和の時代になれば烏山朝夢より梅原北明の方が遥かに通りは良いであろうし、売れ行きにも影響したことであろう。その後、発行所が東京書院に変わり、昭和4年1月に北明訳の「女子性典」のまま再び装幀を変えて継続刊行されているが、9月の三版の所見がある。