雑誌【文芸市場】(文芸市場社)の赤字解消のための窮余の一策{変態十二史}(文芸資料研究会)の刊行が予想外に大当たりした梅原北明が、そこで得た利益を資金に創刊したのが、雑誌【変態資料】である。{変態十二史}の勢いをかい、内容をより先鋭化させたため当然の如くヒットした。発行所を文芸資料編集部とし、発行兼編集に上森健一郎を据えたが、実質的な編集は北明と宮本良が担当、【文芸市場】以来の執筆陣に加え、酒井潔、佐藤紅霞という強力な人材が加わったことにより、内容に厚みが増した。
文芸資料研究会と文芸資料編集部関連で手一杯になった北明は文芸市場社まで手が回らないようになり、必然的に売れないプロ雑誌【文芸市場】は休刊状態になった。尚、文芸資料編集部は、後に文芸資料研究会編集部に改称されるが、【変態資料】は終刊まで前者を発行所としていた。
しかし、好事魔多しとでも言うか、当局の手入れを受け、{変態十二史}以外の刊行物の無納本がばれ、社内の動揺一方ならず混乱を極めた、と伝えられる。結果、北明が【変態資料】から離れ、上森が名実共に後を継ぐことになる。編集は、二巻三号から北明の影に隠れていた宮本が表に出、上森との二人三脚体勢になる。しかし、プランナーの北明が離れたことと、当局の目が厳しくなったことで、会員離れを起こし、やがて衰退の道を辿ることになる。後に発禁回数の記録を更新し続けることになる北明の記念すべき第一回目の発禁、出版法違反であった。
内容は創刊号の口絵にエロチックなものとグロテスクなものの両方を載せるなど、エロ一辺倒と言うよりは、後のエログロ・ナンセンス時代の先駆けとも言うべき編集方針を採っている。特筆すべき記事や特集には次のようなものがある。一巻三号と臨時特別号に分載された『性慾學語彙』は質、量共にずば抜けているが、佐藤紅霞の持ち込み原稿であった。一巻四号の『妊婦の逆さ吊り写真』は責め絵画家として著名な伊藤晴雨の撮影になるものだが、本人には無断での転載である。
二巻二号は前号が発禁処分になったのを受けて、北明一人の執筆で、『明治、新聞雜誌資料、並筆禍文献』と題して、明治時代に発行された新聞による筆禍の特集を組んでいる。目次(未見)と編集後記が別葉になっていて、編集後記は上森が書いている。二巻三号の『謹告』で【文芸市場】を北明の個人誌にする旨の案内が出され、以降北明と上森は徐々に離れて行くことになる。
北明等が離れた後、藤澤衛彦、泉芳m、齋藤昌三などが健筆を振るうことになるが、今村螺炎の朝鮮の風俗を題材にした一連の考察、読み物にはそれなりの面白さがあり、梳弄堂山人の『玩具に顯はれた性の研究』の連載は読みごたえがある。
全体的に見て思われている程強烈なエロ味は少なく、北明と共に酒井潔や佐藤紅霞が抜けてからは、その感が一層強い。その中で、終刊近くになって連続掲載された綿貫六助の一連の自伝的男色小説は異彩を放ってる。
伏字表を頒布するのは当時の軟派系雑誌の常であるが、本誌は元々無納本が前提なので伏字が無かった。しかし、当局の手入れを受けた後は伏字も施すようになり、伏字表も頒布している。他の雑誌と異なるのは、それ以外にも別冊付録とでも言うべき小冊子を頒布している点であろう。詳細は定かでないが、当館に所蔵されているのは、「カーマスートラ」『第二品性交篇』と「オディトとマルティーヌ」各一回分ずつである。恐らく、これ以外にも頒布されているものと思われる。
「カーマスートラ」『第二品性交篇』 | オディトとマルティーヌ |
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二巻一号の発行日が大正十六年一月二十五日になっているのは、訂正が間に合わなかったのか、単なる校正のもれかは不明であるが、新年間際の大正天皇崩御という当時の慌ただしさを現していると言える(本文には年末年始の挨拶を謹む旨の社告があるので単なる訂正忘れであろう)。
變態資料(全二十一冊) | ||
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判型 | 菊判 | |
編集 | 上森健一郎 | |
発行 | 上森健一郎 | |
発行所 | 文藝資料編輯部 | |
刊年 | 大正十五年九月十五日 〜 昭和三年六月十五日 |
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