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「相対レポートセレクション」
の解説に思う


毎回「相対」の話題ばかりで申訳無いと思いながらも、また書いてしまいます。 河出文庫に「相対レポートセレクション」と題したシリーズが登場したのが1998年の9月、「田原安江」のタイトルで、同資料を含む三編が収載されている。 以後2001年1月に発行された「百合子」まで十冊刊行されている。この十冊で第一期が終了だそうである。 第二期があるのか無いのか分らないが、発刊当初から思っていたことを書き綴ってみる。

本文に就いてのコメントは特には無い。気になるのは解説の方である。高橋鐵の【セイシン・リポート】「相対」のあり方の違いを軸に論を展開することに就いては、個人の意見であるのでこれも今回は問わない(少し言いたいことはあるのだが…)。問題は書誌的な記述である。当館は元々書誌が中心のサイトであるから、その点に絞って書く。

「セレクション1」の巻頭の『まえがき』で「相対」の成り立ちと解説者個人の思いが語られている。 自分は解説者として適当か、と言う愚痴はさて置き、まず【相對】第一集原本の概観が述べられ、次に疑問を呈する。 「相対社」とはなっているが「相対会」とはどこにも書かれていないではないか?尤もな疑問であるが、これについては自ら答えを出している。 問題はその答えを出すに至る過程で紹介する【相對】の合本の説明である。

「一つは、しっかりハードカバーのついた、サイズだけは同じA4版の全二九二ページの冊子A(立派な単行本)。もう一つは、頭書の冊子と同じく表紙も貧しい、だが全二四二ページの簡易綴じ冊子B(本とはいいにくい)。 …略… 前者Aの表紙タイトルは、ただ簡素に「相対」、 …略… その巻末の奥付を見ると、印刷、発効日はそれぞれ大正四年二月二十八日〜三月三日。ただそれが活字組みでその下にもう一つ、インクの手書きで大正五年一月廿七日印刷、一月三十日発行とある。おそらく何かの都合で発行が印刷した月日から遅れ、それを手書きで訂正したのであろう。」

現物を見たままに描写したのであろう。しかしこの日付が何を指すかは原典を知らなくてもすぐ分る。戦後に小倉ミチヨが復刻した【復刻版】に載っているからだ。 活字のものは【相對】の第七集(実際には二月二日と誤植されているが、それならそれで印刷と発行が逆転している不思議さを強調できるはず)、手書きのものは第十、十一、十二集の発行日である。 この【相對】の合本はハードカバーなどではなく、雑誌と同じペらの表紙であり、標題は「相対 第一年」、奥付も無い。従って、このハードカバーは最初の所有者が自ら(?)装幀したものであり(本当に自分で合本したのかも知れない)、奥付も手元にあった雑誌の裏表紙を付けたのではあるまいか?これこそ現物を見ないと判断のしようがない。 いずれにしても、先の推測は的外れ所か【復刻版】さえ見ていないことを認めているようなものである。

次に本とはいいにくいものの説明であるが、

「Bの方の冊子はどういうものか。表紙には「故小倉清三郎研究報告顕彰会復刻」、「相対会研究報告」第一号とのみ。そして下方に「――本報告は組合員No.×××之を所有する――」とある(×××には現実の数字が入っているが、事情があってここでは伏せる=来栖)。発行日(印刷日)や、発行者などを明記する決まりの奥付にあるのは、印刷日が昭和廿七年九月廿日、 …略… このB冊子にきて初めて、奥付に(非売品)との明示があり、その理由もB冊子の初めに別刷りで『相対会の栞』というのがつき、その冒頭に「相対会規約」というのがあることで意味がわかる。」

この冊子Bは【復刻版】のように思われるが、そうだとすると全二四二ページという頁数はどこからきたものであろう。元々資料毎の別ノンブルになっているのであるから、各ノンブル数を足した数字であろうか。 しかし総てを足してもその数字にはならない。遊びの部分を合わせても小さすぎる。もしかして、別刷りの「相対会の栞」の部分も足した数字なのであろうか。 しかし、「相対会の栞」は最初から別冊子であり(どの解題にも別冊子として解説されているし、実際その通りである)、発行も八月である。いったい何を見て解説しているのであろうか。 また、会員番号を伏せる理由が分らない。単なる数字の羅列を何故伏せなければならないのだろうか。この番号に格別意味があるとは思われない。例えば会員番号が123であった時、これを伏せる理由は思いつかない。他のどんな数字でも同様である。どんな事情があるというのであろうか。謎である。

「このB冊子にきて初めて、奥付に(非売品)との明示があり」と記述してある部分も意味がよく分らない。元々この部分は相対会ならぬ相対社が、雑誌【相對】を十六銭で販売していた事から相対会という会員組織が本当に存在したのか、と言う解説者の疑問に端を発している。合本の奥付(前述した様に本当の奥付ではない)には既に定価が無いことからこの間に公刊誌から会員限定に移ったのであろうと言う推測の上で、戦後になって初めて非売と明示した、という説明である。だが、これも【復刻版】を見てもらえれば瞭然だが、【相對】第三、四集の表紙に既に非賣品と明記してある。もう一度言うが、この解説者は何を見て相対の書誌を語っているのであろうか。


追記
少なくとも発行された第二集には既に定価は印刷されてなく、表紙裏の社告で「相對社友會員に限り配布することに致しました。」とある。(5/13)

「(A)は大正二年一月の創刊時から昭和十六年一月の清三郎の死、その後ミチヨが刊行を引き継いで昭和十九年四月まで、蜒々三十四年間続いた原本「相対」シリーズ。(B)はこの原本「相対」を、まとまったそのときどきで会内で合本にしたハードカバー単行本仕立てのもの。(C)は終戦後、残った会員などによる要請などから、新たに研究者・同志を糾合し直して復刻した戦後版で、前記「故小倉清三郎研究報告顕彰会復刻」の但し書きつきで、タイトルが「相対会研究報告」となったシリーズ、第一号〜第三十四号である。」

(A)と(C)に就いては基本的に問題ない。(A)の原本「相対」シリーズ、というフレーズには引っ掛るものがあるが、今は不問とする。問題は(B)の記述である。 「まとまったそのときどきで会内で合本にした」といっているが、ハードカバーか否かは別にしても、最初の十二集以外の合本というのはどこにあるのだろうか。寡聞にして見たことも聞いたことも無い。 第一、どのような組み合わせで合本するのであろうか。雑誌はこの後【相對】合併号ありで第十三集まで、【報告】が四冊、【叢書相對】が二冊、そしておそらく【研究報告】が一冊、で総てである。後は半紙にガリ版印刷したものの頒布のみである。 どの様に合本しろと言うのだろうか?この件に就いてはあとでまとめて説明する。

「ところで(A)パターンで混乱するのは、清三郎は、大正七年頃、会員を古参中心の特別会員と新参のある部分で成る一般会員に分け、特別会員にには全冊子を渡すものの、一般会員にはただ「叢書 相対」と表記した彼の「理論篇」のみを渡す時期があった。」

この解説の根拠がどこにあるのか知りたい。確かに、【叢書 相対】第二編の『挨拶』で

「今度の分は「性的經驗概論」の序編となる可きものであります。序編の方も本論の方も元來は、相対會員のために私の報告として書かれたものなのですが、序論の方は故障なく出版され得るものでありますし、一般の人達にも讀むで頂き度いものでありますし、今後折があって、相對會に加入を御望みになる方々には、取り分けよく理解して頂き度い部分でもありますし、するので、此の叢書へ入れて出版することに致しました。」

…略… 本論の方は相對會員にだけ讀むで貰うことに致します。序編だけを御目にかけて、本論を御目にかけないと云ふ事は大變すまない事でもあり、又た(ママ)私としては大變殘念な事でもありますが、それが日本の今の有樣なのですから、何卒惡しからず御願ひを致します。」

の様に述べている。しかし、ここで言っているのは会員には総てを出すが、一般の人には総てを公開できないので、公開できる部分だけでも読んでもらいたい、ということでしかない。会員を古参だの新参だのと分類している訳ではない。確かに、新規の加入希望者に対する御願いは、持って回ったような言い方で理解しにくいが、少なくとも、新会員には資料を総ては渡さない、と言っている様にはとれない。それよりも、一般に公開できないものも会員には公開しているので、是非入会してほしい、と示唆している様にさえ思える(この部分はちょっと強引かな…)。

いずれにしても、何故こんな挨拶が載っているかと言えば、この【叢書 相対】は相對社が定価五十銭(第一篇は二十銭)で発行した公刊誌だからである。公刊誌に新参も古参も会員も非会員も関係無い。 この定価が表示されている部分も【復刻版】には載っている。再々度言う。過去はいざ知らず、この解説を書くに当り【復刻版】には目を通さなかったのか。

と、ここまで書いてきて頭をよぎるものがあった。本館開館時に公開し、現在改訂版になっている『「相対」異聞(改訂版)』「2−2.第二期 ガリ版時代初期」の中で、ガリ版資料の配布は雑誌形式が終了した直後の大正九年か十年頃からではないか、と推論したが、相対会会員にのみ本論を読ませると言うことは、【叢書 相対】と平行してガリ版資料の頒布が始まったとも考えられるのではないか。早ければ無罪の判決が出た大正八年の初め頃からということもありうることになる。再考を要するが、文句を言いながらもこれは大収穫である。感謝しなければなるまい。が、それはさて置き、

「結局、この(A)パターンは全部で幾冊あったのか。実は誰も(研究者も旧・新会員も)その正確な数を書いていない。ただ、澤地久枝氏は「性の求道者・小倉ミチヨ」の中で、昭和四十四年頃の古書展目録で、「相対会研究報告」小倉清三郎研究所 各巻分冊百七冊完全揃 昭和二十二年」とあるのを見たと書いている。 …略… 昭和二十二年というのが事実なら、ミチヨによる復刻版頒布以前だから、あるいは原本「相対」が「叢書」「報告」も含めて全百七冊だったのだろうか。」

「実は誰もその正確な数を書いていない。」のは当たり前で、(A)パターン何冊という捉え方がハナから間違っている。何冊と数えられる雑誌(活字分)は十五乃至十六冊、後は美濃半紙にガリ版で印刷した一枚刷りを資料毎にまとめて 、或いは分割して頒布しているのであるから、最早冊子とは言い難い。印刷物ではあるが出版物ではないと言われる所以である。 従って、正しくは、雑誌何冊、ガリ版資料何編と数えるべきものである。雑誌の冊数と刊行年度はほぼ特定できているが(『「相対」異聞 (改訂版)』「2−1.第一期 活字雑誌時代」参照)、ガリ版資料に就いては状況が混乱して手が付けられずにいる。最大の理由は、【復刻版】で復刻されていない資料が存在することが判明したり(『「相対」異聞(改訂版)』 「4−1.復刻されなかった資料」)、原典に存在しなかったのではないかと思われるのが掲載されていたり(『「相対」異聞 (改訂版)』「4−2−1.『田原安江』と『あひびき』(待合の女)」)するためである。どこから整理して行けばいいのだろうか、と言うのが実情である。

その上でこの件に就いて考えると、百七冊という冊子が存在することはあり得ないと断言できる。ガリ版の頒布分をまとめたとも考えられるが、「相対会研究報告」のタイトルであれば【復刻版】である。解説者本人もそう述べているではないか。恐らく、この後で述べている(D)パターン、つまり【復刻版】をバラして、資料毎に再製本したものの一つではないだろうか。この百七冊という冊数には疑問を呈しながらも何故かこだわっている様子である。館主も時々使用してしまうので強くは言えないのだが、相対原本と言う表現は混乱を招く。頒布形態が活字の雑誌のものとガリ版印刷による半紙を何枚という頒布があったことを理解した上で使用するならば問題は無いが、そうでないとこの解説の様に何冊あったのか、と言うような愚問が発せられてしまう。「相対」がそのような形態であったことは【相對會の栞】にも書かれているのだが…。従って、同冊子で使われている様に、原典が混乱を起こさない言い方である。もう少し具体的で分り易く言うならば、相対原典または原相対が至当であろう。

「ひとつミチヨが犯した重大なミステークがある。それは澤地氏を含めて多くの研究者がいうように、各論文、資料(手記)、考証参考を、そもそも原本ではそれぞれいつの、通巻何冊目のものか、初出のデータ、年月日をまったく記さなかったことだ。」

この意見はまったくその通りである。初出の情報が記されていれば、通巻何冊目などという疑問は発せられないはずであるから。では何故初出の情報を書かなかったのであろうか。本当の理由分らないが、推測は出来る。『「相対」異聞 (改訂版)』「3−1.第三期 ガリ版時代(小倉ミチヨの時代)」を参照願いたい。

「では、どうして、のちになって――「相対」の流れの中では大正5年頃までに――、「相対社」は「相対社」ではなく、「相対会」ないし「相対会第一組合」となったか。しかも、その経緯の精査もできないまま、「相対会」があたかも初めから「会」としての「組合規約」をもっていたと、たとえば雑誌「えろちか」の臨時増刊「性探求の金字塔《相対会研究報告》」(昭和四十四年六月発行、三崎書房刊)などは書くのだろうか? おそらく、私たちがまだ見ぬ原本百七冊(?)を総点検できれば、その謎はおのずと解けるところがあるのだろう。「相対社」はいつ、「相対会」あるいはその「第一組合」となり、冊子「相対」は一般社会から遠のいた「会員限定冊子」となったのか?」

精査も何も「初めから会としての規約を持っていたなどと「えろちか」は言っていない。「えろちか」が書いたのは「大正五年頃の「相對」組合規約は次のようなものでした。」として、【復刻版】『「報告」大正五年十一月』に載っていた『第一組合規約』をそのまま転載したに過ぎない。 【復刻版】の内容を素直に受け止めればそれ以外に書きようが無いではないか。 確かに、これでは何時から組合組織になったかは分らない。しかし、先にも記したように、【相對】の第三集から既に非売品になっていることは「えろちか」は見ているであろうから、相対社の名称がその時点、大正二年九月頃から使われなくなっていたことは分っていたはずである。

従って、答えは既に出ているのであるが、自らその解を求めて相対の事件を説き、

…略… すでに当該冊子は闇に紛れているものの、復刻相対についている原本全冊子総目次の中の「報告」(大正五年十一月)篇最終項に「第一組合の印刷に関する判決文」とあるものの中身にかかわるものである。 …略… また、「総目次」の「報告」(大正五年十一月)にある詳細不明の「第一組合印刷物に関する判決文」というものは、同じく「青鞜」が大正二年十一月号で「相対」と小倉に広告面を提供し、…略…何らかの相関関係を有するのではあるまいか。

「復刻相対についている原本全冊子総目次」と言うのは何のことだろうか?【復刻版】にそんなものは付いていない。【復刻版】に付いているのは、【復刻版】自身の総目次である。「詳細不明の「第一組合印刷物に関する判決文」」も詳細不明でもなんでもなく、【復刻版】にちゃんと載っている。 但し、総目次には載っていない。 次の註が付いた、大正八年の「相対」無罪判決文である。

なお、この判決は、当時『相対』『報告』にも都合があって未報告のものであった。

ちゃんと載っている所か【復刻版】が初出であることが分る。しかも大正八年の話である。相関関係は全く有していない。

その広告には、「春的経験/…他に五編分あるが略… 」など、本来ならばこの年につつがなく出たはずの「相対」の主内容が載っている。自らも広告した刊号は果たして本当に大正二年十一月以前に出たのか?」

広告に載っているとされる七編分は、本来ならば出たはずではなく、つつがなく出ている。特に初めの四編は最初に自身で掲げた【相對】第一集の内容ではないか。他も第二集と第五、六集に掲載されている。【復刻版】を確認すれば、大正二年十一月以前に第五、六集まで出ているのはすぐ分る。もう言わないが…。


追記
この『まえがき』で何回か出てくる澤地久枝氏の「昭和史のおんな」(文芸春秋『文春文庫』、1995年2月、第10刷で確認)『性の求道者・小倉ミチヨ』には、先の六編を揚げた後、「この年に刊行された一号から六号までの主要内容がのっている。」とありました。(5/13)

…略… 広告主・小倉清三郎の次のような「挨拶」が載っている。「…略… 本年一月以来『相対』と題する研究録を出して居ります。(中略)『相対』は相対会員に限り頒布することに致してあります。 …略…

この広告の「挨拶」なるもので「この時期には既に会員限定化が決まっていたのだ。」と得心しているが、はぁ。

「「資料」なのに実録でないのが一本だけある。「女流学人の追憶」というもので、有名なドイツ艶笑文学の会員訳である」

本当はこの部分に就いて書きたかったのだが、最後に書くとして、続けると、

「余談だが、原本「相対」に、初めて性と生の生記録が登場したのは第八集(大正四年七月)らしい。スタート・ランナーは某大教授で、」

らしいって、やっぱり【復刻版】すら見たこと無かったのね。因みに清三郎の解説では学士となっている。どこで教授に出世したのでしょうか?


追記
これは館主の早とちりで、学士氏の報告の前に、Y.Y.氏の報告がありました。申訳ありませんでした。但し、これも「畏友小倉氏」とあるので、清三郎の知人であることは分りますが、教授かどうかは分りません。(5/13)

「風俗書誌研究家・発禁書籍蒐集・研究家の城市郎さんが、私の未読の参考文献(書籍・記事・論文)を含め、いろいろの資料をご貸与下さった。」

と付記に記しているが、いったい何を借りて何を読んだ結果がこの有様なのであろうか。

で、もう疲れてしまいましたが本題です。「相対レポートセレクション」の7巻に「女流楽人の追憶」他三篇が載録された。解説で

「実は私は、一種の「作品」としてならともかく、「実録」扱いとしての「女流楽人の追憶」ならば、私の愛し、尊敬する読者のみなさんにはとても読ませたくなかったのだ。万一、それを紹介する場面になっても、少なくとも私はこれを「偽作」として、「実録」とは少しニュアンスの異なるものとして、あらかじめ、みんなで了承し合っておきたかったのだ。」
「もとより小倉清三郎は、これを端から「実録の側」に置き、登場する女主人公を、おそらく原作(ないし彼の見つけた[?]地下本)にそう解説してあったとおりの、現実の歌姫に想定して解釈したのでもあろうが、」

何を元にするとこのような解説になるのか理解に苦しむ。「女流楽人の追憶」が「実録」である、とはいつどこに書いてあると言うのだろうか。解説で清三郎が書いていることは、

「ドイツに於ける春的文学の代表作と云われてゐるこの「追憶」は…略…「追憶」一篇は創作であります。」

であり、これのどこが「実録」扱いしていると読めるのであろうか。この引用文は同書の巻頭に書かれているものである。「実録」でない「作品」を論文の中でどのように扱うかは議論の分れる所であるので、そのことに就いては何も言わない。しかし、事実関係をはき違えてまで糾弾する意味はどこにあるのだろうか。【復刻版】を見ないどころか、これから解説する本の原稿かゲラか知らないが、内容も見ていないのだろうか。

「彼は、この本の入手経緯とか、誰がどこから持ってきたとか、原本はどういう体裁で著者名はどのように記されていたかなど、原典の補助的な「事実」をもきっちりと紹介しておく必要があったのだと考え、ときには「あなたは本当に学者か」などと怒っている。」

この意見に就いてはもっともであると思う。確かにもっと詳しく書いておけばこんなトンチンカンな話にはなていなかったかもしれない。しかし、少なくとも作品名は Aus den Memoiren eines Sangerin、作者は Wilhelmine Schroder-Devrient(ドイツ語が表現できないので両方とも少しインチキです。)と信じられていると明記している。第一編と第二編から成るが、参考品として第一編を翻訳するとも書いている。と力説してもなにも見ていないのでは暖簾に腕押しか。

「だからミチヨさんは、本当によく、あなたという少し抜けたことの好きな人に仕えなすった。」

元々この「女流楽人の追憶」参考品として原典で紹介された。解説を担当するにあたり、資料を借りたと言っている城市郎氏のコレクションを元に刊行された別冊太陽「発禁本」(構成・米沢嘉博、平凡社、1999年7月)の「相対」の項には、まさに「女流楽人の追憶」の原典そのものが載っている。そこにも〔参考品〕とはっきり書かれている。なんで城氏にこの原本を見せてもらわなかったのか。先の百七冊の話もこの原本を見るなり、城氏に聞けば簡単に解決できたのではないだろうか。

では何故「女流楽人の追憶」が「実録」の資料であると勘違いしたかと言えば、【復刻版】では「参考」ではなく、「資料」に分類されているからである。しかし、これは清三郎の問題なのか。違うでしょう。【復刻版】の総責任者はミチヨなのであるから、責められるとしたらミチヨの方ではないのか。自分の関知しないところで勝手に変えられた状況にイチャモンをつけられて、清三郎は草葉の陰で泣いているのではないか。

「振りかえって、「女流楽人の追憶」の原典について、詳しい書誌学的な経緯を研究しておられる方がいれば、その一端なりとも、いつかそれをこのシリーズ読者たちのためにご教授願えないものであろうか」

そんなものに就いて研究している人はいない(もしかしているのか?)、と言ってしまっては終わってしまうので、参考資料を提示しよう。佐々謙自訳の「世界珍書解題」(グロテスク社、昭和三年十一月)の『第三十二章 最も有名なる獨逸原版の艶書三種』の先頭に『ある踊り子の覺え書から』と載っているのがそれである。 「好色文学のドイツ原版中最も有名で、最も流布せるものだ。」とある。初版は二部、ボストンの Reginald Chesterfield から発行、発行者はアルトナの出版局で一巻は1868年頃、240頁、二巻は1875年7月以降、240頁、となっているが、以後十二版まで出され、最新版はアムステルダムから1909年番号入り800部だそうである(もっと詳細なのだが書誌の記述だけしても面白くないので転載しない)。

もう一つは同じ佐々謙自が訳出した「世界好色文学史 第一巻」(文芸市場社、昭和四年一月)の『第三部(C)十九世紀の獨逸 第四章 十九世紀の淫蕩文學』『歌妓の回想』として解説されている。書誌的には前書のほうが詳しい。もっと他にもあるのだが、直接調べられる文献としてはこの二点(「世界珍書解題」に就いては日本習癖家協會版でも同様)であろうか。いずれも城氏の所にはあるであろうから、自分で調べる気になればすぐ分るはずである。資料が手元にないとか資料を持っていそうな人が周りにいないと言うならばいざ知らず、日本有数のコレクターである城氏から資料を借りられる立場にありながら、自分では何の努力もせず(したのか?)、研究しておられる方がいれば、とは何たる怠慢、清三郎の爪の垢でも飲ませたい。

書誌の専門家でもない人に詳細な書誌を要求するのは酷と言うものである。しかし、見ればすぐ分る様なことを見もしないで、想像のみでこれ程好き勝手に言い放ち、結果これだけ杜撰だといっそ清々しいのかもしれない。ただ、本文の出自(何を元にこのシリーズを作ったのか)の信憑性まで疑われてしまうのでは、と言う懸念は残るが…

と、ここまで書いてきて、またフト思った。先ほどの解説に次のような個所があったのを思い出したのだ。

現実の歌姫に想定して解釈したのでもあろうが、今、時代を遠く距ててしまって私たちが、その歌姫の存在もその生涯も知らぬとき、

訳の分らん人間に関する創作で分析や解説をするな、と続くのであるが、名前は清三郎が明記している。生没年は先の書誌から分った(1804−1860)。インターネットがあるではないか!! 早速ドイツの Google で 「Devrient」と「1804」をキーに検索したら沢山ピックアップされた。 例えばこれなどは肖像画入りで略歴(?)が載っている。残念なことにドイツ語もチンプンカンプンなので内容はよく分らないが。 現代の日本人が知らないだけで、想像以上に知られている存在なのかもしれない。特に音楽か演劇の世界では。

もう一度言いたくなってしまった。調べてからものを言え!!!


追記

歌姫に就いて書かれたものを見付けましたので、要点を抜粋致します。出典は雑誌【奇書】II(東京限定版クラブ、1952年6月)、原比露志の「『歌姫日記』の女主人公」です。自ら総目次を公開していながら、肝心の記事を本番で見落とすとは何たる醜態。申し訳ない!!

内容は、同誌の別冊として頒布された「歌姫日記」、つまり「女流楽人の追憶」の原本の紹介と、主人公とされる女性「Devrient」の略歴である。原本の書誌は他から引用しているので、略歴から、抜粋して転載する。

シユレエダア・デヴリエソトほ一八〇四年十二月六日にハムブルグで生れた。父親はフリイドリツヒ・シユレエダアと云つてバリトン歌手であり、母親はゾフイ・シユレエダア・ブルガアと云つて女優で、ともに当時のドイツの著名な舞台人だつた。

略…一八二一年にこの音楽の都の宮廷劇場でパミナの役をやつてデヴユウしたと云うことである。パミナはモオツアルトの歌劇「魔笛」の女主人公だ。

ついでプラアグ、ドレスデソのオぺラなどで歌つていたが、一八二二年ヴイシ(ママ)で初演されたべエトオヴエンの唯一の歌劇「フイデリオ」で女主人公のレオノオラを歌つて劃期的成功をしたと云うことである。…略

一八二三年から四七年まで彼女はドレスデソの宮廷オペラと契約していたが、一八三〇年にはレツケルのドイツ歌劇団に加つてパリに遠征して大評判をとり、一八三一年から翌年にかけてイタリアヘ、同じく三二年にはロンドンのキングス・シアターでデヴユウし、三三年から三七年に亙つてはコヴエソト・ガアドン座に出演して、レオノオレやノルマやパミナを英語で歌つている。

…略…

一八四二年十月廿日、バリでの上演が不能となつた「リエソチ」がドレスデソで二晩にわけて初演された。彼女はアドリアノを見事に演じてウアグナアの名を高からしめた位の成功を得た。…略

翌年の一月二日同じ劇場でヴアグナア自身の指揮で「漂泊へるオランダ人」が初演された。デヴリエソトは女主人公センタに扮してこれまた大成功であつたが、相手役のオランダ人になつたウエヒタアがあまり香しくなくてオペラ自体は「リエソチ」の成功に及ばなかつた。…略

一八四五年十月十九日には「タソホイザア」がドレスデンで初演された。ヴアグナアはこの総譜ができ上るとすぐ印刷して出版しようと計画し、デヴリエソトがその費用を捉供する約束をしてくれたのだが、製版ができ上つた頃に、彼女はその頃できた若い情人が彼女の財産を握つていたのでそれをヴアグナアに渡すことができず、そのためにこの二人の友情にはひゞが入つて、当然デヴリエソトが女主人公ユリザベエトを歌う訳だつたのが、ヴアグナアの姪のヨハソナに廻りヽデヴリエソトはヴイナスの役になつてしまつた。…略…そして一八六〇年一月廿六日、五十六歳でコオブルグで華やかな生涯の慕を閉じている。

当時のドイツ楽壇の批評によると、彼女の声質はドラマチック、ソプラノで、若い時の基礎訓練が不足して、多少技術的に欠陥があつたが、美しい素質と劇的な性格の激しさが融け合つて成功させたのだと云うことになつている。

モーツアルト、ベートーベン、ワーグナー、音楽史上欠くべからざる大作曲家のオペラを、軒並みリアルタイムで主演していたらしい。この略歴が正しいならば、想像以上に知られている存在どころか、オペラ史上欠くことの出来ない人物といえるかもしれない。但し、現在著名なオペラも、初演当時は散々な評判のこともあり、評価は難しいと言える。この例で言えば、ベートーベンの「フイデリオ」は、当時の社会情勢と楽曲自体の問題(最終的には大幅に書き換えられている)で、不評であったとの話もあり、この略歴との間に齟齬がある。作曲家の場合、楽譜が残ることにより、後世の評価にも耐えられるが、ビデオもレコーダもない当時の演奏家や歌手の今日的評価は難しい。しかし、少なくとも「その歌姫の存在もその生涯も知らぬとき」と言うのは違うように思う。

(2002/9/8)

以前から館主は感情的な事はなるべく言わない様にして来た。元々が感情が高ぶると押さえが効かないタイプであるので、努めて理論的に発言して来たつもりである。 しかし、前回の「赤い帽子の女と芥川龍之介」で少し感情が入りすぎたか気がして反省をしていたのだが、今回はそれ以上に感情的になってしまった。 陳謝!

追記
お詫び:「田原安江」の発行月、「百合子」の発行年がそれぞれ間違っていましたので修正しました。やはり感情が高ぶるとあきまへん。大反省!!(五月十二日)
その後、幾つかの確認事項を追記として追加しました。(五月十三日)

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