大正二年に始まった「相対」は、当局とのせめぎ合いで何度か小休止を余儀なくされながらも続いてきたが、昭和八年、会にとって最大の試練に直面することになる。官憲との徹底的な対立から、丸四年の長期に亘って中断した「相対」が再開した後、報告の作成配布に小倉清三郎の影響力はあまり見受けられず、妻のミチヨ(世話人)の孤軍奮闘ぶりが窺える。そうなってしまった理由は色々と考えられるであろうが、結果として継続された「相対」を中心に、清三郎の死亡を間に挟んだ戦前のガリ版時代と戦後の復刻版刊行の時期に分けて考察してみる。
昭和八年一月に出版法違反で何度目かの摘発を受けた「相対」であるが、同年二月、会員名簿以外の資料を総て押収されてしまう事態になった。この時、清三郎は留置場に三十何日、市ヶ谷の刑務所に七十何日か拘留されて取り調べを受けている。一方ミチヨは一連の経緯の後、昭和十一年五月、検事局で大暴れの末、精神病院送りになってしまった。しかし、翌年初頭には何故か「相対」が復活再開されている。
昭和十二年〜十九年の目録 | 昭和十二年度の年間目録 (1123x816,180KB) |
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昭和十二年二月から「相対」の活動が再開されたが、毎月送付される「報告」と一緒に、送付した資料の一覧、ミチヨの挨拶、清三郎の『よもやま』と題した近況報告をまとめたものが別に一枚添付された。更に、翌年の第一回の送付には、前年一年間に送付した資料の総目録が添付された。その昭和十二年度分の目録の最後に『相對會パンフレット 第一編』と題したものを前年の十一月に頒布したことが載っている。
序言
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禁欲生活の問題 |
羞恥心の休息 |
この資料は未見のため想像でしかないが、来年から「相対」を再開する旨の案内であったと思われる。注目すべきは『相対会史概表』と題した一頁分で、主宰者自らが現在進行形の中、過去を総括する形で綴ったと思われる相対会の歴史である。この内容次第では相対会に対する既存の概念がひっくり返る可能性もある。勿論、定説の追認という形で終わるかも知れない。何れにしても実物を見てからでないと判断できないが、新たな資料の存在が判明しただけでも良しとしよう(探しものがまた増えてしまったなぁ)。
もう一点、このパンフレットの最後に記載されている二編であるが、題名から察すると清三郎の論文のように思える。しかし、このタイトル(サブタイトルを含む)で復刻された資料は存在しない。「相対」本編ではないので復刻版から外したのか、異なるタイトルで収載されているのか、この資料そのものの現物が当時手許に無かったので復刻出来なかったのか、また一つ謎が増えた(本論では謎を究明しているのか、創出しているのか、自分でも分からなくなって来る)。
昭和十二年四月の『よもやま』で、清三郎は『私の研究室にあった参考資料研究資料が一たん全部亡失の厄に遭遇しましたが(略)諸君からの寄贈品委託品がポツポツ集まりかけました。』
と述べている。戦後の復刻版の刊行に先立って発行された「相対会の栞」でミチヨは『ついに昭和十九年四月、中止の已むなきに至り、更に翌二十年五月二十九日、かの横浜大空襲で、自宅にあった、過去三十有余年間の研究資料一切は焼失してしまったのであります。』
と書いているが、実際には昭和八年の摘発で総ての資料が一旦は無くなってしまった訳である。「相対」の再開に就いては昭和十二年に再開したことをアッサリと述べているだけで、このことには全く触れていない。何故触れなかったのかという理由は分からない(想像はつく)が、そのことが後世の研究者を悩ましたことだけは間違いない(もしかして、悩んでいたのは館主だけ?)。
押収された資料には既発表分だけではなく、これから発表するべく準備していたものも含まれることは想像に難くない。復刻版にはその旨の記述がある資料も存在する。未発表の資料は当然会員にも渡っていないので、どんな形であれ、会が取り戻すことも出来ない。どれほどの未発表資料が存在していたのか知る術はないが、それらが永遠に闇に葬り去られてしまった事実だけが、虚しく記録として残っていくことになる。
それでも「相対」を再開したということは、先の寄贈品委託品が集まり始めたからであろう。『前回一言申上げたが某画伯の遺品の一部を會の方へ研究資料として御預りすることになりました。』
(昭和十二年五月の『よもやま』)などで「相対」以外の資料も集まったであろう。しかし、総ての「相対」資料を集めることは結局不可能だったようである。
本論の初版で、清三郎没後に作成送付された資料に過去の資料の再頒布が多いのが何故であるのか疑問を呈した。幾つかの理由も推測し、結局「清三郎の晩年には既に未発表の原資料がほとんど無かった」としか考えられないと結論した。今回昭和十二年以降の目録が入手できたことにより、そのこと自体の正しさが証明されたのみならず、そのような状態になってしまった理由も明らかになった。清三郎の晩年どころか、再開した「相対」は、ほとんどの資料が再頒布であった訳である。
昭和十三年一月の『よもやま』に、
昨年二月から新たに組織的の報告を始めてから今年で一年になります。(略)第一年を通じて報告した概論は未だ完了に至りません。尓余の論文は完了の分も未完の分も、皆、概論の一部をなすものでありました。(略)過去の一年間には、新しい記録は殆ど現れませんでした。第二年度からはそれが現れてまいります。来月は、貞女であるが故に、春的に疲れた夫を亢奮させるため、その望みにより、我が愛する夫の眼前に於いて、他の男に身を任せ、眞に自分も春的に亢奮し、最高の歡喜を味はゝねばならない位地にある気の毒な妻の存することを簡単ながら示してくれるある男の記録を報告します。
とあるように、再開以降に新しい資料が殆ど存在しないことは清三郎自ら述べていることで明確である。それでは、そのような状態で再開された「相対」の意義とは何であったのだろうか。戦後の復刻版のように、実現可能か否かは別にしても、「相対」の完全復刻を目指す、というコンセプトは分かり易い。過去に作成した報告全てをもう一度再作成することを目標に作業を行えばよいからである。しかし、再開「相対」の目指したものが何であるのかは理解し難い。再作成する資料の選択基準も分からない。発表時期が古い順という訳でもなさそうである。途中で「相対」を中止しなければならないような世の中になろうとは予想もしていなかったであろうから、あまり深い意味も無かったのかも知れない。或いは、資料を全て失った経験から、早くも完全復刻の必要性を痛感し、それを目指したのかも知れない。この文章にもある『組織的の報告』が再開のコンセプトなのであろうが、意味不明である。先の『相對會パンフレット 第一編』を読めば判然とするのかも知れないが、現状では無いものねだりである。
昭和十五年六月頃「相対会分室」なるものが出来、清三郎はそちらに移った。直接的な連絡はそちらにして欲しい旨の案内もあった。澤地久枝氏の「昭和史のおんな」(文芸春秋『文春文庫』、1995年2月、第10刷)『性の求道者・小倉ミチヨ』で述べられている「目黒の仕事場」のことである。それによると、二人は離婚を前提に別居状態になったようであるから、新規の報告は臨むべくもないであろう。但し、送付された挨拶や『よもやま』などからこのことを想像することは出来ない。
そのような中、昭和十六年一月十四日に清三郎が急死したため、世話人として報告の作成送付を行っていたミチヨが相対会そのものも後を継ぐ形になった。但し、身分は世話人のままであり、新たな資料も見込めない中で、実質的には「相対」の復刻作業を続けることになる。
清三郎没後の昭和十六年三月の報告で、会員への説明に、
小倉清三郎亡き後の相対会につきまして、御不安らしく、二、三の会員の方からお問い合せを頂きましたので、念のため皆様に申上げておきます。昭和八年二月から昭和十一年七月まで、警視庁検閲課と食うや食わずで戦って、昭和十二年二月から再び相対会を始めるようにしましたのは、小倉清三郎ではなくて、小倉ミチヨが「独房から脳院」へまでも行ったそのつぐないとして、当局の了解を得てやっているのであります。
とあるように、清三郎の生前から「相対」は自分が中心になってやっているので問題は無い、と自信たっぷりである。実際、昭和十二年以降の報告に関する一切はミチヨが仕切っていたので、当然の発言と言えようか。
以下に、この度入手した昭和十二年以降の年度別の「相対」目録を掲げる。年度とは言っても正確には二月から次年の一月までをまとめたものであり、「相対」再開月から十二ヶ月毎を区切としたものである。最終送付となる昭和十九年四月までの「相対」末期の全容である。尚、昭和十九年度は途中で中止になってしまったため、年度の目録は無く、月々に送付された目録をまとめたものである。
資料名 | 発行月 | 提供者 |
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論文 | ||
性的経験概論
| 2〜12 | 小倉清三郎 |
週期末の特徴(男に於ける)
| 4,5 | 小倉清三郎 |
自慰の意義及び効果 | 5 | 小倉清三郎 |
夫婦生活 | 5,7 | 小倉清三郎 |
利己主義と夫婦生活 | 7〜1 | 小倉清三郎 |
資料 | ||
女百態 | 2,3 | いろは |
女百態(二) | 4,5 | いろは |
A氏の日記の一部(女百態につゞく) | 8〜1 | いろは |
性に関する記憶 | 7,8 | 是空 |
始めて見た世界 | 3 | MASAGO |
十六の春あった事 | 3,4 | 市松 |
最初の経験 | 4 | かささぎ |
操の印章 | 6 | ほうせんくわ |
参考品 | ||
女流楽人の追憶(譯文) | 8〜1 | |
注解考證 | ||
考註索引 末摘花 | 7〜1 | |
回答録(一) | 12 |
資料名 | 発行月 | 提供者 |
---|---|---|
論文 | ||
性的経験概論
|
2〜1 | 小倉清三郎 |
利己主義と夫婦生活 | 2,3 | 小倉清三郎 |
不釣合の調整 | 4〜8 | 小倉清三郎 |
連想の媒介による春的刺戟の増加(大正八年前半) | 10 | 小倉清三郎 |
資料 | ||
A氏の日記の一節 | 2〜7 | いろは |
貞女の苦境 | 2〜6 | 山吹生 |
預かったズロース | 6 | 湘南逸民 |
春に喘ぐ | 7,8 | 朱玉道人 |
八面鉾 | 9,10 | 濱木綿 |
彼女と彼 | 11〜1 | |
参考品 | ||
女流楽人の追憶(譯文) | 2〜10 | |
注解考證 | ||
考註索引 末摘花 | 2〜1 | |
秘本手記 | 11〜1 | 是空 |
資料名 | 発行月 | 提供者 |
---|---|---|
論文 | ||
性的経験概論
| 2〜1 | 小倉清三郎 |
資料 | ||
忘れ難き二十二才の娘 | 2〜6 | 三勝生 |
或る青年の性的回顧 | 6〜9 | 真砂生 |
或る中学生の手紙 | 9,10 | |
村に於ける意外な出来事 | 10 | 小倉清三郎 |
S―と彼の情婦 | 10 | 原人生 |
瑠璃さんの記録(女の自慰の実例) | 11 | 都人生 |
温泉雑記 | 11,12 | 小倉清三郎 |
微妙な膣を有った女(ある男の話) | 12 | 都人生 |
十三年間の性交記録 | 12 | 陽炎生 |
階上の音・隣室の音 | 1 | 上田生 |
注解考證 | ||
考註索引 末摘花 | 2〜1 | |
秘本手記 | 2〜1 | 是空 |
資料名 | 発行月 | 提供者 |
---|---|---|
論文 | ||
性的経験概論
| 2〜1 | 小倉清三郎 |
古今を貫く人情の機微 | 2〜5 | 小倉清三郎 |
資料 | ||
階上の音隣室の音 | 1〜4 | 上田生 |
民謡土俗に於ける春的要素 | 4〜10 | 小倉ミチヨ |
女から挑まれた経験(目録上の標題は[女に恋せられた経験]「女に恋された経験」) | 5〜12 | 浮舟生 |
赤い帽子の女 | 12〜1 | 黙陽 |
仝附図及註 | 12 | |
文学藝妓(年度目録は[文学藝者]) | 1 | 陽炎生 |
或る私娼窟 | 1 | 浮舟生 |
注解考證 | ||
考註索引 末摘花 | 2〜1 | |
秘本手記 | 2〜7 | 是空 |
昭和十六年一月十六日、小倉清三郎逝去
資料名 | 発行月 | 提供者 |
---|---|---|
掌篇 | ||
無題 | 7,8 | |
第一回例會 | 9,10 | |
無題 | 11,12 | |
性的俗謡集 | 1 | 温柔郷侯 |
論文 | ||
処女と娼婦 | 6,7 | 小倉清三郎 |
赤い帽子の女を中心として | 6〜10 | 某々生 |
資料 | ||
サド風とマゾ風 | 2〜5 | 小倉清三郎 |
赤い帽子の女 | 2〜4 | 黙陽 |
紅燈の異花 | 3 | 項垂生 |
倫敦ハイドパークの夜 | 5 | 市松 |
男嫌の女 | 7,8 | Resonus |
ビデー雑話 | 7 | 某々生 |
夜更けの小道 | 9 | 都人生 |
小米桜 | 9,10 | 共鳴生 |
避難宿の出来事 | 10〜1 | 陽炎生 |
注解考證 | ||
末摘花速記 | 2〜1 | |
桃源華洞 | 4〜6 | |
秘本手記索引 | 11〜12 | |
医心方房内篇 | 1 | 鉄筍生 |
資料名 | 発行月 | 提供者 |
---|---|---|
掌篇 | ||
性的俗謡集 | 2〜7 | 温柔郷侯 |
三味線に現はれし春的歌謡 | 9〜1 | T生 |
論文 | ||
赤い帽子の女を中心として | 2〜8 | 某々生 |
タマルの場合 | 4,5 | 故小倉清三郎 |
資料 | ||
避難宿の出来事 | 2 | 陽炎生 |
Kと云ふ男の日記の一部 | 3〜7 | 都人生 |
更正途上にある独房の阿部定隣室観察十日間 (婦人公論昭和十二年七月) | 6 | 小倉ミチヨ |
それからそれ | 7〜11 | 千曲生 |
わかぐささんの思い出 | 8〜1 | 故小倉清三郎 |
事務所生活の数頁 | 8〜12 | 可奈志 |
AB通信 第一信(大正十年)〜三信 | 10〜1 | AB生 |
あの女 | 1 | しろがね |
注解考證 | ||
末摘花速記 | 2〜4 | |
末摘花 | 5〜1 | |
医心方房内篇 | 2〜7 | 鉄筍生 |
新婚當時夫妻の心得べき事 | 9 | 田中氏報告 |
黄素妙論 | 12,1 | 小倉清三郎 |
資料名 | 発行月 | 提供者 |
---|---|---|
掌篇 | ||
三味線に現はれし春的歌謡 | 2〜4 | T生 |
讀賣川柳(いくらか性に関するもの) | 7〜1 | 都人生報告 |
論文 | ||
汽車の中の出来事 | 4〜12 | 小倉清三郎 |
上海にて | 1 | 小倉清三郎 |
資料 | ||
わかぐささんの思い出 | 2,3 | 故小倉清三郎 |
あの女 | 2 | しろがね |
事務所生活の数頁 | 3〜12 | 可奈志 |
或る料理屋の女将 | 3〜5 | 浮舟生 |
妻と私(67頁〜218頁) | 6〜12 | |
メカケの試験 | 6 | 陽炎生 |
忘られぬ女 | 7 | 陽炎生 |
奇遇 | 8 | 陽炎生 |
魔窟の一夜 | 9,10 | 浮舟生 |
男根くらべの夢 | 9 | たけの葉 |
曇った日の断想 | 11 | 原人生 |
或る男の春的嗜好 | 12 | 陽炎生 |
菊の井の女将 | 1 | 市松 |
百合子 | 1 | 都人生 |
注解考證 | ||
末摘花 | 2〜1 | |
黄素妙論 | 2 | |
鎌倉山 | 3〜6 | (参考品) |
艶史目録 | 7〜8 | 是空 |
大通龍神 | 10 | 岩井岩二郎 |
往来千摺 | 11,12 | (参考品) |
春画の題材帳 | 1 |
資料名 | 発行月 | 提供者 |
---|---|---|
掌篇 | ||
讀賣川柳 | 2〜4 | 都人生報告 |
論文 | ||
上海にて(大正九年十二月記) | 2〜4 | 故小倉清三郎 |
資料 | ||
菊の井の女将 | 2 | 市松 |
百合子 | 2〜4 | 都人生 |
暗色の女の群 | 3〜4 | 陽炎生 |
参考考証 | ||
末摘花 | 2〜4 | |
春画の題材帖 | 2〜4 | 陽炎生 |
これらの報告の内、この時期に新たに発表された資料は以下の通りである。但し、『性的経験概論』の二十五、二十六と『更正途上』は公刊誌に発表されたもの再録であるから、「相対」としての新資料という訳ではない。
清三郎の没後に『掌篇』と題して、毎月の送付目録に一頁(『よもやま』が掲載されていたスペース)分の短編資料を分載しているが、これらは、新たな資料であると思われる。
『よもやま』は近況報告であるので、復刻版には採られていないが、昭和十四年分のみ第三十四号の『雜纂』の一編として収載されている。但し、これにはミチヨの世話人としての挨拶も含まれているので、資料としては貴重でも、正確な復刻とは言い難い。
再開された「相対」が清三郎の主要論文である『性的経験概論』から始まっているのは当然であろう。 『性的経験概論』の大半のベースは過去に発表された論文であるが、そのままの内容のものもあれば、例証として引用されているものもある。再開に当たって全体を再構成し、繋ぎの部分を新たに書き足しているようである。最後の何章かは、他誌に発表したものの転載も含め、書き下ろしの論文であるが、完結を見ないまま清三郎が他界してしまった。
大正十二年三月(初出) | 昭和十九年一月(再刊) |
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戦後、公刊、地下刊行含めて艶本がブームの頂点に達していた頃、
『昭和二十七年の現在となっては、この報告の原典をたとえ一部分でも所蔵する人は稀であり、一般の者はおろか、性問題の探求に熱意を有する人でさえ、その原典の片鱗すら見ない人もある現状である。このままにして推移せんか、人類に大なる裨益を与うべき貴重なる国宝的文献も、あたら地下に埋もれ将来もし奇特の士が現れて本報告の復刻を企てても、その完欠の再現は不可能となるやも知れないのである。』
(「相対会の栞」)ことに危機感を覚え、小倉ミチヨが再び世話人として原典の忠実な復刻を目指し、昭和二十七年九月から昭和三十年十二月に掛けて全文を活字化、「相対会研究報告」全三十四冊の叢書として刊行した。
相対会の栞 | 復刻版 |
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復刻版の第一号は昭和十二年の再開時と同じように、清三郎の『性的経験概論』から始めている。「相対」の中核を成す論文であるので、何回復刻されても最初に登場するのは当然であり、必然ですらある。しかし、他の資料の収載順の根拠は相変わらず不明である。「相対会の栞」で述べている復刻に就いての方針にも書かれていない。のみならず、この方針では論文は論文、資料は資料で通しノンブルを振る、と明記してあるにも拘わらず、現実には再開期と同様な、資料毎の通しノンブルになっている。編集方針が変わってしまった理由はこれもまた分からないが、そもそも通しノンブルという企画自体に無理があったのではなかろうか。資料毎にノンブルを振っているガリ版初期からの伝統を壊すことに、最終的なミチヨの了解が得られなかったのかも知れない。
刊行を始めた復刻版は六冊発行時点で、印刷屋(?)の横流しが原因で事件になった。そのため続刊が危ぶまれたが、半年後に再開、全三十四冊の頒布が完了した。しかし、その直後に全く別の事件から「相対」に飛び火し、頒布済の「相対」まで押収されてしまった。戦前の出版法時代でさえ、頒布済の書籍の押収と言うことはなかったので、前代未聞の出来事であった。結果、復刻版も一組か二組(実際には十組前後か?)しか存在しない状態になってしまった。何のための復刻であったのか、復刻作業が全くの徒労に終わって「相対」はまた闇の中に埋もれてしまった。
この「相対」復刻版は色々な問題を含んでいるが、詳細は次章の「復刻版の検証」で述べる。復刻版の総目次を附録「復刻版「相対会研究報告」総目次」で公開しているので参照されたい。
「相対」が体験手記を中心とした性資料文献の金字塔であるのは現在でも変わらない。しかし、原典が稀少であるからと刊行した復刻版も世の中から消え、再び闇の中に潜ってしまった。このままでは惜しい、と思ってか復刻版を復刻する試みがなされた。所謂再復刻版は復刻版と同じように三十四冊構成で、美学館から刊行された。さらに、この再復刻版を基に、分載されていた資料をまとめて、編集し直したものが大部の二冊組として、銀座書館から刊行されている。資料の内何点かは伏字を施した形で過去にも新書などで刊行されているが、現在では、無削除のままシリーズで刊行(河出文庫、河出書房新社)されている。
美学館版 | 銀座書館版 |
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次章で詳しく考察するように、「相対」復刻版には色々な問題が内在している。それを基にした再復刻版は、その問題をそのまま引き継いでいるのみならず、『或る温泉村の人々』他の地図が抜けている、『Kといふ男の日記』の一部が欠落している(談話室の 「とほほな「相対」再復刻版」 参照)等、新たな問題も持ち込んでいる。良かれと思って修正した部分が逆に傷を深くしてしまっている(4−3−1.唄に於ける春的要素]の番号のズレに就いての補記)部分もある。本文は復刻させても、当時の刊行にまつわる資料や記述を全て落としているので、研究には使用できないという致命的欠陥も抱えている。現在無削除で刊行されている文庫本では、資料の部は継続刊行しても、論文の部を完全に刊行するとは考え難い。
復刻版、再復刻版、文庫、と色々な形で出版され、何もかも公になってしまったように見える「相対」であるが、現実には数々の問題をはらんでいる、まだまだ調査研究を要する対象であると言える。調査研究のための最大の難関は最初からそうであったように、いかにして原典を入手するか、と言う書誌研究の原点にある。そして、「相対」原典入手の難しさは第一級である。 何時になったら「相対」の研究は終わるのだろうか。本当に終わるのであろうか。大いに不安ではあるが、少し光明が見えて来た今日この頃ではある。