一般には、「相対」の戦後復刻版は原典を完全復刻したものとされており、この資料に疑問を持つ人は知る限り存在しなかった。しかし、原典や原資料が少しずつ手許に集まり、各々を比較考証していくと、多くの疑問点が浮かび上がった。それらの疑問点を明らかにし、今までだれも行わなかった(と思われる)復刻版の検証を試みる。
復刻版に復刻されていない未知の「相対」資料が存在するなどとは誰も考えもしなかった。『全世界に完本は僅か二部しかない』
と言うフレーズが余りにも有名なためである。二部でもあるならば復刻版はその完全な復元のはずである、と思うのは当然である。
しかし、大正十三年二月の日付で発行された『假目録(謄写になって后の分)』と題する半紙四枚に亘る目録の出現が事態を一変させてしまった。この目録は、文字通り「相対」がガリ版になってから前記の日付までに頒布された資料の一覧である。全部で九十八の項目が掲載されているが、二十一の項目が復刻版では抜けている。但し、同一資料の分載もあるので、資料名で数えれば正しくは十一資料である。今回未復刻と推定した資料のタイトルを示す。
ガリ版初期の未復刻資料 | |
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資料名 | 報告者 |
異性の友人(幼年時代少年時代) | 小倉清三郎 |
青年時代の始まり(性的概論のうち) | 仝 |
性的概論の始まりと信仰生活の始まり(性的概論のうち) | 仝 |
大きな事柄 | 仝 |
性的教育の意義(性的概論のうち) | 仝 |
青年期の始めに於ける春的経験と其の分解 | 仝 |
白いリボンの女 | 芳保卦京 |
女の衣裳と春的経験 | 原 |
種々なる人々 | 都人生 |
私の春的生活の中から | 小倉道世 |
ノートの中より(実際の資料名は「ノートの中から」) | 小倉清三郎 |
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最初に発表された時点と復刻版ではタイトルが異なっているものもあり、前記のリストの中でも掲載されているものがあるかも知れないが、原典の入手が困難なため正確な比較考証が出来ないのが残念である。
『異性の友人』から『青年期の始めに於ける春的経験と其の分解』は目録の最初に掲載されているものであり、その四十五枚分がまとめて脱落している。この部分は雑誌時代の延長線上にあり、小倉清三郎の論文の中核を成す『性的経驗概論』の初期のものと推測されるが詳細は不明である。
また、『白いリボンの女』を提供している芳保卦京は他に発表された資料が無く、これが復刻されなかった為に「相対」とは関係が無かった人になってしまった。資料としての内容、価値は原文が無いので判断しようがないが,あまりにも寂しすぎると言うのは感傷的すぎるだろうか。
『私の春的生活の中から』は小倉ミチヨの性に於ける自伝的半生記であるが、所々をピックアップして清三郎の論文『性的経驗概論』に例として転載している。初版の時はそのことに気が付かず、ミチヨ名義の該当資料が存在しないので、全く復刻されていないと勘違いしていた。只、全体が復刻されていないのは事実である。さらに付け加えると、この転載された例には、所蔵の資料には存在しない先の部分もあるので、続編の存在することが窺える。逆に、本文が総て同じ論文に転載されているためにリストからは外したが、清三郎の『親子の縁』も、序文に当たる一枚目が未復刻である。
意図的に落した資料もある。復刻版第五号の『秘本手記 第四回』の末尾に、
以下都毘くさくさ等あるも古語にて終戦後の現在使用せられざる活字多々ありますので誠に残念に思ひますが省略させて頂きます何卒悪しからず御了承下さい。尚時期を得ましたならば印刷に致しまして配布致し度存じて居ります。(世話人 小倉ミチヨ)
とあるように、活字に組めないという理由で「陰名考」を中途で終了させている。実際、活字に無い文字は「〇」を充ててあり、資料としてはあまり役に立たない。「近世庶民文化」の七十七号(近世庶民文化研究所、昭和三十七年六月)で同書を復刻した折も活字に無い字には「□」を充てたが、ガリ版による欠字表を別送している。昭和五七年七月に太平書屋で刊行した時は、活字では無理であるとして、影印により翻刻した。このような学究的な態度を取れなかったのも復刻版の欠点と言える。
その後、昭和十二年以降の目録を入手したが、明らかに未復刻と思われる資料が何点か確認できる。
再開以降の未復刻資料 | ||
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資料名 | 報告者 | 配布時期 |
妻と私 | 昭和十八年六月〜昭和十八年十二月 | |
讀賣川柳 | 都人生 | 昭和十八年七月〜昭和十九年四月 |
百合子 | 都人生 | 昭和十九年一月〜昭和十九年四月 |
『妻と私』は原本が全ては存在しなかったのか、六十七頁から唐突に始まっており、年度の目録からも抜けている不思議な資料である。都人生の『讀賣川柳』は『いくらか性に関するもの』
と付け書きしてある所からも、恐らく読売新聞に掲載されていたシリーズの抜き書きと思われる。
昭和十九年四月で中途半端のまま終了してしまった何編かの内、『百合子』のみが中止された所までしか復刻されていないので、中途半端な復刻のままである。他の資料の状況からも、原典には『百合子』の完全版があったと思われる。
手許にある少ない資料からだけでも、これだけの数の未復刻資料が確認できるということは、「相対」の主力がひしめく大正後期から昭和八年の一時中断までの資料に、どれ程の未復刻資料が眠っているのか想像も付かない。復刻版に洩れている資料があることを責めるものではないが、復刻版が「相対」原典の実体を正確には反映していないとするならば、その全容を確定するためにも、原典の蒐集が必須になったことは否めない。
今回資料として使用したガリ版初期の『假目録』や、後期の目録の他にも、年度毎か配布月毎の目録が存在すると思われるので、せめてそれさえ入手出来ればとは思うものの、侭ならぬのが世の常(今回の後期目録一括入手のような僥倖もあり得るが…)、気長に探索していく他はあるまいと考えるこの頃ではある。
復刻されていない資料が存在することは明らかになった。それでは、逆に元々の「相対」には存在しなかった資料が紛れ込んでいる可能性は無いのであろうか。ある資料が復刻されていないことを証明するのは簡単である。発見された原典に対応する復刻資料が見当たらなければ、それは取りも直さず未復刻資料となる。しかし、存在しなかった資料が復刻と称して掲載されているのを指摘するのは難しい。原典の総てが明らかにならないと、該当しない資料であることが指摘できない。が、場合によっては傍証から推測することが可能なものも存在するかも知れない。次には、その点について検証してみる。
会員の性に関する生の報告を脚色せず、そのままの形で掲載していることが特徴の「相対」に於いて、奇妙な事実が存在する。問題の資料は【復刻版34号】所載の『あひびき』と題する報告である。この報告を読んでいると、どこかで一度読んだことがあるような錯覚に見まわれる。そう、まるで『田原安江』を読んでいるかのように思えるのだ。 『田原安江』は【同15号】所載の報告であり、「相対」を代表する資料の一つでもある。その資料と同じような内容の別の資料が、同じ「相対」内に存在するというのも不思議である。
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何故なのであろうか。これは「相対」の意義に関する今までの常識に一石を投じているのではなかろうか。本項ではこの問題に就いて論じてみる。 先ず、両資料のポイントになる部分を対比した表を次に掲げる。
比較項目 | 田原安江 | あひびき |
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資料提供者 | 黙陽生 | 荷嵐生 |
総頁数 | 145頁(復刻版15号) | 24頁(復刻版34号) |
登場人物 | 私 | 私 |
田原安江 | A | |
おせい(若い女中) | おせい、おたつ(女中) | |
出会い | 四月二十五日 | (一) 約三年前の十二月 |
おせいさんの紹介 | おたつさんの紹介 | |
年 → 23、4との(女中の)話 21、2に見える |
年 → 23、4くらい | |
『成程小づくりの一寸美しい顔をして、ふちなしの強い眼鏡をかけ、髪にはアイロンを当てた薄茶色の洋装美人であった。』 | 『小柄な可愛い女で、洋服をきてゐた。しかも眼鏡をかけている。』 | |
最初にリンの玉を使用する場面 | 五月二十七日 | (二) |
『私も亦、亢奮して陰茎が堅く張れて来るので、すぐ入れやうかと思ったが、 実は、今日は変な道具を持って来て居るので、それを用いてみたくなった。 それは、二三日前、大阪の友人から送ってくれた肥後ヅイキと、リンの玉である。』 | 『私も、大分に催したが少し計略があるので、今日は大いに参らせてやらうと思ひ「ズイキ」と「リンの玉」を用意して来た。 自身の補強にもと、高価な雲南ジャコウも買って来た。』 | |
以後、肥後ズイキの巻き方のエピソード等があって、詳細に記述されている。 | 肥後ズイキのエピソードは細かい所まで同じだが、その他の記述が簡略である。 | |
リンの玉の取り出しに苦労する場面が続く。 | 『これは、コツがあって指を入れてもなかなかでない。』として、本来のリンの玉の取出し方であっさりと取り出している。 | |
『取り出してみると…略…私は、それを、安江の鼻の下へ差し出して、匂ひを嗅がしてやった…略…リンの玉は、綺麗に掃除して桐の箱に納められた。 どうもご苦労様でしたといふやうな感謝の念を、リンの玉に捧げずにはおられなかった。』 | 『すると、はじき出された。手に取って女の鼻先に持ってゆくと、ポンと口中に入れて、アメ玉みたいにしゃぶってゐる。』 | |
最終的には… | 後記より | (八) |
『私は、種々の事情のために、今日では、安江から遠ざかりつつある。 つまり、たまにしきゃ逢わないのであって、全然絶縁したのではないが、自然に疎くなりつつある。…略…今の処、畢境、疑問の女として、彼女を見守って居るより外、仕方がないことである。』 | 『実際、私とAとの関係は、その夜が最後だった。遂に私から完全に逃晦した。それから二年後、私は結婚した。相手はむろんおせいさんである。』 |
『あひびき』では、最初からAとおせいさんとの間での三角関係があり、愛憎の果てに、表のような結末になるが、 『田原安江』では、安江の神秘性に魅せられたまま最後まで進行する、と云ったストーリー上の違いがあり、何が似ているのかと思われるかも知れないが、両方を読み較べてみると一目瞭然である。
全体を流れる調子は、『田原安江』の方が安江との性交の記録と云った趣があるが、『あひびき』ではリンの玉の場面のすぐ後にSM風な描写が続く等、記録と云うには余りにも違和感が有りすぎる(それが事実ならばそれこそが「相対」の本来の在り方である、と言ってしまえばそれまでだが…)。寧ろ、所謂猥本に近い感じがする。結末もおざなりの感を否めない
ストーリーが違うのであるから、全体的な内容は確かに一致していない。全体を通して共通しているのは主な舞台が待合いである点ぐらいなものであろうか。しかし、発端の出会いとリンの玉を使用する場面の描写は明らかに『田原安江』を下敷きにしており、そのことに疑問の余地は無い。役割はまったく異なるが、おせいと言う名の女中が登場する点も同様である。問題の全文を転載する事は出来ないので、要点だけを表にまとめた。特に、肥後ズイキの巻方に就いて大阪の四ッ目屋の十八九の娘に実地に教わる箇所(腕を見立て教える。為念)は、文言まで同一である。
何故このようなことになってしまったのかは、判然としないが、可能性としては、次のようなことが考えられようか。
各々に就いて私見を述べる。
総ての可能性が否定的であり、結局振り出しに戻ってしまった。何故なのだろう?
『あひびき』が『田原安江』の海賊版であることはほぼ間違い無い。内容もさることながら、資料提供者としての荷嵐という名前も気に入らない。 永井荷風を連想させるような安っぽいスーハー本にありがちな命名である。戦前には発禁処分を受けたこともある荷風であるが、このような類の作品に名前が使われるようになるのは、戦後を代表する地下本の一つである「四畳半襖の下張」が荷風の作であるとの説が流布された以降であろう。実際荷嵐作を標榜する地下本も存在する。
そのような資料が何故「相対」の【復刻版】に掲載されているのであろうか。この資料は戦前の原典に、本当に存在するのであろうか?原典の全貌が判明するまで結論は据え置きである。
巷間『田原安江』を三分の一に縮めて改ざんしたと云われている「待合いの女」は、実際はこの『あひびき』の方を持って来たものであり、『田原安江』とは直接的には関係無い。但し、もう一つの海賊版である『安江と云ふ女』(世界珍籍選集 別巻下や紫書房版等)は『田原安江』そのままである。もっとも、原本ではAとなっている名前を安江(所見本の「待合いの女」)や田原安江(「彩情記」)に改ざんしているのは事実であり、いかにも猥本屋が勝手に改ざんしたのではと思わせるに十分な内容(猥雑化)が誤解の元になったのではないかと思われる(安江をAに替えたと見ることも出来るが…)。
『あひびき』の真贋はともかく、資料の入手が困難なことが最大の理由であろうが、一度公表された説を孫引きして発表することの多い斯界であるとは言え、各原本を比較対照もせずに定説化してしまうことだけは避けたい(自戒の念も込めて)。
この章で述べたようなことに気が付いたのは【復刻版】を手に入れてから大分立ってからである。文章としてまとめたのはさらに後であるが、その時は事実関係のみであった。当館で公開するに当たり、そのようになってしまった理由を無理矢理ひねり出して追加した。結論めいたものは出さなかったが、四番目の無茶苦茶が事実なのではないだろうかと推測していた。過去に解説されて来たことと、本論全体で述べている事実の間のギャップに愕然としたからである。しかし、推測はあくまで推測でしかない、ということで、初版の時はそれ以上のことは述べなかった。
所が、当館を公開した後、当館を見て何回かメールのやり取りを行った人との繋がりで、花咲一男氏と親しくしている人を知ることができた。氏の専門は江戸の風俗であるが、【復刻版】刊行当時の軟派界を知る数少ない人でもある。氏が「相対」の【復刻版】に関して色々問題点を指摘しておられる、と言う話を近年側聞していたので、チャンスと思いその人に、氏を紹介して欲しい旨頼んだのであるが、高齢であることや諸般の事由により直接お会いすることは出来なかった。しかし、質問は取り次いで頂けるとのことであったので、お願いした。間接的でもあり、回答に対する関連質問も出来ない状態で隔靴掻痒の感は免れなかったが、一応の答えは得た。それらを次に述べる。
花咲氏が疑問に感じていた点が何であったのかは遂に分からなかったが、氏が直接ミチヨ女史に訊ねても何も答えてくれなかった、とのことなので、その疑問点は急所を突いたものであったろうことが推測できる。つまり、【復刻版】にはまだ何らかの問題点(本論が総てを指摘しているとは思わないので)が内在している。
氏が地下本の研究家である故斎藤夜居から聞いた話として、【復刻版】の編集者(名前は失念しておられたが、館主の長尾桃郎では、との確認にそうであるとの回答があった)から夜居が聞いた、次のような話をの述べていた。
『復刻版に、原典にないものを入れたい、とミチヨに相談した時、当然の如く快諾は得られなかったが、復刻版の刊行がミチヨに財政的な潤いを与えてくれていたので、断りきれなかった』
何故、原典にないものを入れたい、というような大それた考えが出て来たのかは不明であるが、これが事実であるならば事は重大である。又聞きの又聞きなので個々の言葉の正確性は保証できないが、ミチヨの了解の元に原典以外のものを混入させていた、という信じられないような内容である。本章の『あひびき』がそうであろうことは前述のように予想していた。しかし、これは別の理由から、ミチヨの預かり知らない話であるとも考えていたので、心底驚愕した。しかも、氏はそのようなものが何編もあるらしいことを示唆しておられる様子でもある。
しかし、これにはまいってしまった。館主の頭の中では、さらに何編かが候補には挙がっている(確証がない)が、他にそれらしきものが見当たらないからである。氏は『女流楽人の追憶』(間に入って頂いた人が、書籍に関しては専門家ですが「相対」に関しては素人ですので、異なる資料かもしれない)がそのようなものであると考えておられる様子であるが、これは原典にある。困った、というのが正直な感想であるが、ハッキリしたことは、「相対」は原典を総て洗い直さない限り本当の姿が見えない、と言う本論の主張が改めて確認された点であろう。
昭和十二年以降の目録入手により、次のものが「相対」の対象外であることがほぼ判明した。『阿部定訊問事項』(二十二号)と『阿部定の調書』(二十三号)の二編である。阿部定の事件が起きたのは昭和十一年の五月である。当時「相対」は実質的な活動を行っていないので、報告があるとすれば、昭和十二年の再開以降である。昭和八年の中断前であることは絶対にありえない。しかし、再開された「相対」で阿部定に関して報告されたものは、小倉ミチヨが独房に居た時の隣室の阿部定の観察記録『更正途上にある独房の阿部定隣室観察十日間』のみである。従って、この二編は元々「相対」とは関係ない資料であると言える。
この二つの資料は復刻されるに当たって以下の但し書きが付いていた。
『本文は、もと、例の「出歯亀事件の調書」その他とともに『色界種々相』の題のもとに発表されたものですが、本復刻においては編集の都合もあつて、この「阿部定尋問」を先行させ、引続き同調書を、さらに、その他の件に関する調書を逐次報告する予定です。右お含みを(ママ)き下さい。』
しかし、先にも述べたように阿部定に関する調書は再開後の相対では報告されていない。『色界種々相』も同様である。つまり、この但し書きは明らかに虚偽である。『色界種々相』(第二十一号)と題されて復刻されているものは四十二頁に亘る十一の短編集である。一方『阿部定訊問事項』は八十四頁、『阿部定の調書』は五十七頁の長編である。その点からも同一の資料とするには不自然である。
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時間的な流れが事実と反することで、この但し書きの問題点は明らかであるが、実はもう一点但し書きが付いた調書資料がある。『訓導の女生徒姦淫事件記録』(二十七〜三十二号)である。こちらの方は、
『註、発表当時は「色界種々相」(三)と題したもの。都合により、題名を変えた。』
となっているが、その後に小倉の名前で前書が付いており、元々「相対」の資料であったことが推測できる。但し、「色界」云々の一節は怪しいかもしれない。題名を替えなければならないどんな都合があったのかも不明である。先の阿部定にしても編集の都合と言う名目で虚偽の報告をしている点、同じ「色界」の資料の一部であると記述してある点、などからも怪しさが窺える。
一方「出歯亀事件の調書」とされるものは『姦淫事件記録摘要』(二十四号)と題された資料に、「石山銀次郎」の事件と一緒に掲載されている。各々五頁の短編であり、前書も報告者が書いたと思われる内容である。この二編が『色界種々相』に含まれていた可能性は高いと言える。
この他に、調書関連の資料として『坐藥事件記録抄本』(二十六号)と『説教強盗証人調の一幕』(三十三号)があるが、前者は調書物の艶本として有名な「O博士事件予審調書」であり、後者はこれまた艶本の常連「説教強盗事件」が題材である。断定は出来ないが、前者に前書きは無く、後者の前書きは「出歯亀事件」とよく似ている点からも、この二編も疑わしい資料の対象である。さらに、これらの調書もの総てに共通していることは、報告者の名前が未記載であることである(復刻版「相対会研究報告」提供者別一覧参照)。「色界」の一部であるから記載の必要はないとの意見もあろうが、分載されている資料でこのようなものは他には無い。特に編集の都合他で構成を変えるのであれば、なおさら元報告者の記載が必須であろうと考えるのは自然であると思われるが……。
その後、「色界種々相」(三)の原本を見る機会があり、『坐藥事件記録抄本』は存在することが確認された。但し、『説教強盗証人調の一幕』の方は未確認のままである。 それらの原本を元に作成された、「シンプル・リポート」No.11『相對報告初出大年表』に詳しく掲載されている。同号は現在頒布中なので、興味のある方は、「シンプルリ・ポート復刊案内」をご覧下さい。('02/1/6 追加)
4−1.復刻されなかった資料の所で述べた『私の春的生活の中から』や『親子の縁』のように引用にしか残っていないものや、『百合子』のように「相対」そのものの継続が不可能になって中断されたまま、戦災で資料を失ってしまったものなど、原本が手許になくて正確な復刻が出来なかったものの他に、編集ミスのために正しく復刻されなかった、と思われる資料もある。誤字脱字や用字など意識的にか無意識かは別にして、校正での見落としはある程度仕方のないことなのかも知れない。しかし、校正そのものを行っていないのではないかと思われるような重大なミスもある。その資料を検証してみよう。
【相對 第十集、第十一集、第十二集】の合併号に『第二回相對の會出品目録(大正四年九月)』と題する報告記事があり、[第一 歌詞]として四十九編の春歌が番号を付して掲載されている。この企画は好評であったと見えて、『唄に於ける春的要素』の題名で二百八十一編まで以後三回に渡り続編が発表されることになる。
当然、復刻版でも第二十八号、二十九号、三十号、三十二号に収載されている。しかし、復刻版の番号には不思議な所がある。以下にその内容を記す。
号数 | 掲載番号 |
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第二十八号 | 1 〜 48 |
第二十九号 | 49 〜 149 |
第三十号 | 150 〜 227 |
第三十二号 | 230 〜 281 |
まず第二十八号で「四十八」になっているのが最初に記した「四十九編」と一致していない。次に第三十号の終わりが「二百二十七」であるのに、第三十ニ号の始めが「二百三十」であり、間の二編の行方は何処へ?との疑問が湧く。二百編以上に亘る項目を番号で管理しようとすれば、それを転載した時に何らかの不整合が発生するのはある程度仕方ないことであろう。ただ、真実の記録をありのまま発表することを標榜する「相対」としてはどうも、という感は否めない。
そこで、その原因を調べて見ることにする。手許に原本総てが有る訳ではないので、多少の齟齬は覚悟の上で私見を述べる。比較する資料は先の【相對 第十集、第十一集、第十二集】の合併号、及び『唄に於ける春的要素(三)』の写本である。
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最初に『第二回相対の会出品目録』と第二十八号を比較する。
各々「一、因州いなば」から始まり「三十、穴の深さ」までに異同は無い。以後次のように続く。
第二回相対の会出品目録 | 第二十八号 |
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三十一、雨しょぼ 三十二、雨しょぼ替唄 三十三、となり座敷 ・ ・ 四十 、朝起きて 四十一、一ばん五円 四十ニ、石の地蔵さん ・ ・ 四十九、枕曾我 |
三十一、雨しょぼ 三十二、となり座敷 ・ ・ ・ 三十九、朝起きて 四十一、ばん五円 四十一、石の地蔵さん ・ ・ 四十八、枕曾我 |
第二十八号では「三十二、雨しょぼ替唄」が抜け、以後番号がズレたまま「枕曾我」まで行ってしまう。しかし、実際に抜けているのは「三十二、雨しょぼ替唄」では無く、「三十一、雨しょぼ」の歌詞である。察するところ、版組か校正(校正が怪しいと睨んでいる)の段階で「雨しょぼ」がダブっているとして、同歌詞から次の「三十二、雨しょぼ替唄」の題名までの一連のブロックを削ってしまったのではなかろうか。ただ、番号のズレはニ回目、三回目にもそのまま引き継がれているので、原稿の段階で既に落とされているのかもしれない、との疑念も拭え去れない。
また、「四十一、一ばん五円」は「一、一」が「一」のダブりと判断されてか、題名の方が削られてしまった。 番号を揃えようとするなら「四十、一」とするのが普通のように思えるが、結果としてこの番号のみ原本と一致することになってしまった。(補記 参照のこと)。
第二十九号 |
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四十九、 見やしゃんせ ・ ・ 百二十、 ふとざをで 百二十二、板になりたや 百二十二、娘十六七や ・ ・ 百四十九、むすめ十六七 |
「四十九」から始まり「百四十九」まで記載されているが、この部分は比較対照する原本が無いので、「百二十二、板になりたや」は「百二十一」の誤植であろう、とのみ述べておこう。
唄に於ける春的要素(三)写本 | 第三十号 |
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百五十一、 のぼるはこね ・ ・ 百九十八、 あすのばん 百九十九、 おそゝする時 二百、 難産する時や ・ ・ 二百二十七、むすめ十六七 |
百五十、 のぼるはこね ・ ・ 百九十七、 あすのばん 百九十八、 難産する時や ・ ・ ・ 二百二十九、むすめ十六七 |
相変わらず番号が一つズレたまま進んでいるが、今回再び復刻版に於いて「百九十九、おそゝする時」が脱落した。この理由はまったく持って想像できないが、この時点でズレが二つに増えたことになる。
第三十ニ号 |
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百三十、 後家と云ふ字は ・ ・ 二百八十一、むすめ十六七 |
今回は何故番号がズレたまま始まらないのか解釈に苦しむが、最後に来てようやく原本(写本)との番号が繋がった。復刻作業で一度ならず二度までもデータを脱落させてしまった意味は大きい。
今回はたまたま原本の一部と写本が存在したため復刻版の不備を指摘することは出来たが、復刻版或いは再復刻版しか見ていない人は、第三十二号で突然飛んでしまった番号をどう理解するのであろうか。 この件に就いては単純な校正ミスなのではないかと考えるが、もしかしたらまともな校正すら行っていないのではないかとも思えてくる。特に、『あひびき』の補足で述べたようなことが事実であったとしたならば…。
美学館他から刊行された復刻版の復刻(所謂再復刻版)の編者もこの番号の不整合は気になったらしく、「百二十二、板になりたや」の番号を「百二十一」に正したのはいいのだが、「四十一、ばん五円」の方も番号が正しくないとして「四十、ばん五円」としてしまった。「ばん五円」ではなんのことやら意味をなさない。歌詞の方には「一ばん五円とは おどろいた…」とあるのだから間違え様が無いと思うのだが…。