「相対」の原典には初期に刊行された活字雑誌と資料の中枢を占めるガリ版刷りで配布されたものの二通りの形態がある。各々に就いて調査検討した結果が本章の主題である。但し、大正後期から昭和八年の中断までに配布された、「相対」の主力となる資料は手許に殆ど無いので、後日を期したい。
活字雑誌としての「相対」は大別して三種類ある。
大正二年に創刊された【相對】第一集は、「小倉清三郎研究録」を冠した、定価十六銭、相對社の発行である。つまり、公刊誌としてスタートした訳であるが、同年三月に発行された第二集では表紙裏の社告に『相對社友會員に限り配布することに致しました。』
とあり、定価の表示もない。斎藤昌三の「現代筆禍文献大年表」(書物展望社、昭和七年十一月)に依れば、第二集は同年の四月に発禁になっているようであるが、発禁になる前に会員頒布に切替、尚克つ発禁になったというのも考え難いので、発禁後に会員頒布の文言(活字が他の文章に比較して小さい)を加えて配布し直したのではなかろうか。第三集、四集が初めは謄写版で刊行されたのも、その辺りの事情の影響を受けているのではないかと想像できる。後にこの二冊は活字の合本として再刊されているが、表紙には「非賣品」の文字が印刷されている。以後、第十二集までの初年度分を刊行するのに丸三年を要することになる。
第一集と第二集は当初横組みで刊行されたが、第十二集刊行後の大正五年三月頃に縦組みの合本として再発行されている。これは、元々単独で発行することを目的としたものではなく、第一年目の仕事として第一集〜第十二集までの合本を作成するに当たり、第三集以降との体裁を整えるために版を組み替えた序でに、その部分だけ余分に印刷製本し、頒布したものである。当然合本にした第一年も直後に発行されている。第九集も発禁になり、これは正式裁判になっている。
第十三集は戦後の復刻版で見ると表紙もあり、冊子として刊行されたようにも取れるが、他とは異なり発行日付が無い。また、復刻されている第十三集と一緒に、「大正五年二月」、「三月」、「五月上旬」の見出しで『相対会便り』が三通載っているが、これの「二月」に『こんどからは、このような手紙を以て研究の報告をすることに致しました。(略)版の出来ただけを、ともかくお送りすることに致しました。』
とあり、「五月上旬」に『今度ので、第二年の第一期分がすんだことに致します。(略)第一期には、仕事の分量が少し少なかったのですが、それは、第二期で取りかえしたいと思ひます。』
とある所から、資料毎にバラバラに頒布された可能性が高い。従って、第二年目第一期としての資料はあっても、第十三集なる冊子は存在しなかったのではないかと推測できる。
付記:最近該書の原典を入手したが、やはり冊子ではないことが判明した。(平成十六年五月四日)
「三月」には先に述べた横組みを縦組みに変えた経緯が載っており、「五月上旬」には他に、先の第九集が五月二日に一審有罪判決があったことと、判決には不服なので控訴した、旨の記述がある。尚、第三、四集活字合本の原本が入手できたため、同誌の発行年月から「?」を取って修正確定した。
相對 第五集第六集 | 相對 第一年合本 | 叢書相對 第一編 |
---|
大正六年二月から【報告】と名称を変えた「相体」は、四冊目を出した同年九月に発禁になったようである。「現代筆禍文献大年表」では【報告】の(1)のみが発禁になったように書かれているが、大正八年二月の控訴審判決で無罪になった判決文(復刻版第三十号収載『第一組合の印刷物に関する判決文』)では、二月、四月、五月、九月に配布されたものを一括して審理しているため、総ての【報告】が出版法違反の対象になっていたと思われる。この復刻版第三十号の判決文は、文末に記載されているミチヨの説明に依れば、先の【相對】第九集の控訴に対する最終判決として掲載されたものである。しかし、この判決文の一審有罪の日付は大正七年十月十五日、対象も違反容疑該当個所の引用から【報告】であることがハッキリしている。従って、このことは、第九集刊行当時、清三郎との面識もなく「相対」の存在すら知らなかったミチヨの思い違いである可能性が高い。そうすると第九集の最終判決は……。
この判決、つまり無罪の理由が有名な「印刷物ではあっても出版物ではない」と言う主張が通ったことである。出版物ではないから頒布が伴わず、従って出版法の対象になり得ない、と言う理屈である。とされて来たし、ミチヨ自身もそう述べている。裁判の内容、その記録をどのように解釈するかは素人には難しい。この判決文で言えば、
本件公判事実は、被告人清三郎は雑誌報告の著作者なる処、犯意を継続して大正六年中二月四月五月及び九月の四回に(略)其他数個の一読羞恥の念を起こすべき卑猥の文字を著述し、(略)被告人義一は右雑誌の発行者なる処、犯意を継続して前記被告人清三郎の著述せる風俗を壊乱する文書を、(略)之を頒布し、以て以て風俗を壊乱する文書を出版し、且其出版の都度製本を内務省に届出ず、又各雑誌に発行者たる自己の氏名住所等を記載せざりしものと云ふにあれども、被告人清三郎が右雑誌報告の著作者、被告人議一が其発行者なることは之を認め難く、結局、被告人等の所為は犯罪なりと認むべき証憑十分ならざるを以て、(略)被告人等を無罪とし、(略)
となっており、出版物ではない、とは書かれていない。出版物とするにはその刊行手順など出版を構成する要素の証拠が不十分、従って出版物とは認められないので、出版法に於ける違法性はない、という意味なのか、単純に、発行者の記載が無いなどで発行したとするには証拠が足らないと言う意味なのかは判別できない。先の主張を述べたことは事実であろうが、そのことが認められたのかどうかは、この判決文では判然としない。ここは是非司法の専門家のご意見を伺いたい所である。戦後の復刻版が最終有罪を確定している事ととも関連して来るかも知れない。逐次刊行物であるならば出版法ではなく新聞紙法が適用されるはずとの疑問もある(逐次刊行物という程定期的には出ていないが……)。何れにしても、この出版物ではない、という立て前のため、以後の「相対」の資料には作成日や印刷日はあっても、発行日は記載されていない。戦後の復刻版も同様である。
付記:刊行者側で出版法で行くか新聞紙法で行くかを選択できたようである。例えば、梅原北明の雑誌「文芸市場」は出版法で刊行している。(平成十六年五月四日)
もう一つ、この判決文に記載されている【報告】の配布月が、復刻版記載の印刷月と一致しているため、本論初版で記述した刊行年月の「?」を取って確定とした。また、冊子の形で復刻されていないために不明であった十一月号の配布月も二月に確定した。
四冊発行された【報告】の後続誌は【叢書相對】であるが、発行は二冊のみである。この冊子は【相對】第一集と同じく相對社発行の公刊誌である。第一編は二十銭、第二編は五十銭の定価が入っている。諸般の事情から第一編は【相對】第一集の再録であったりして、甚だ迫力に欠けるが、これは致し方のないことなのかも知れない。しかし、第二編の『挨拶』に
「今度の分は「性的經驗概論」の序編となる可きものであります。序編の方も本論の方も元來は、相対會員のために私の報告として書かれたものなのですが、序論の方は故障なく出版され得るものでありますし、一般の人達にも讀むで頂き度いものでありますし、今後折があって、相對會に加入を御望みになる方々には、取り分けよく理解して頂き度い部分でもありますし、するので、此の叢書へ入れて出版することに致しました。」
「本論の方は相對會員にだけ讀むで貰うことに致します。序編だけを御目にかけて、本論を御目にかけないと云ふ事は大變すまない事でもあり、又た(ママ)私としては大變殘念な事でもありますが、それが日本の今の有樣なのですから、何卒惡しからず御願ひを致します。」
とあるように、会員には別途本論の報告を渡すが、この冊子は公刊なので、差し支えない序編のみを掲載した、ということが分かる。或いは、この第二編は無罪判決の後に刊行されたものなので、ここで新しい会員を公募して、心機一転蒔き直しを図ろうとしたとも想像できる。しかし、事実は、以降ガリ版による発行を余儀無くされて行く辛い時代への序曲でもあった。 尚、復刻版三十四号に「研究報告」と称する資料が復刻されており、【叢書相對】の後続誌のようであるが、刊年等の詳細は不明である。
相対 | 第一集 | 大正2年 1月20日 |
第二集 | 2年 3月25日 | |
第三集(謄写版) | 2年 5月13日 | |
第四集( 仝 ) | 2年 9月 6日 | |
第三、四集(活字合本) | 2年 9月25日 | |
第五、六集 | 2年 9月10日 | |
第七集 | 4年 3月 3日 | |
第八集 | 4年 7月15日 | |
第九集 | 5年 1月 8日 | |
第十、十一、十二集 | 5年 1月30日 | |
5年 2月〜5月 | ||
第一年(第一集〜第十二集再編集) | 5年 5月(?) | |
報告 | 大正五年十一月 | 大正6年 2月 |
大正五年十ニ月 | 6年 4月 | |
大正六年一月二月三月 | 6年 5月 | |
大正六年四月五月六月 | 6年 9月 | |
叢書相対 | 第一編 | 大正7年 1月30日 |
第二編 | 9年 3月15日 | |
研究報告 | (?) |
雑誌の総目次を附録「原典雑誌 総目次」で公開しているので参照されたい。
「假目録(謄写になって后の分)」と題する半紙四枚に亘るガリ版刷りの目録がある。文末に『大正一三−二−現在』
とあり、文字通り「相対」がガリ版になってからその時点までに頒布された資料の一覧である。従来、「相対」のガリ版への移行は昭和に入ってからではないか、と言われていたが、この資料の出現はその説を根底から覆してしまった。少なくとも、大正十三年二月の時点で相当数の資料がガリ版で頒布されている事実が判然とする。
最初のガリ版資料が配布されたのが何時であるかはこの資料からは読みとれないが、【叢書相対】 第二編の刊行が大正九年三月(「研究報告」は未見のため不詳)であり、ガリ版三十三回目の『泣き出した女』の頒布が大正十一年末(元々記載が有った訳ではなく、資料の所有者が書いたと思われる)であることを考慮して単純計算すると、雑誌形式での頒布中止を決めた直後、早ければ大正九年の夏、遅くとも大正十年の初めには頒布が開始されていることになる。
只、【叢書相對】の第二編『挨拶』で小倉清三郎が述べていた、『本論の方は相對會員にだけ讀むで貰うことに致します。』
との言葉通りに実行されているとするならば、大正九年の春頃に頒布が開始された可能性はある。もう少し調査が必要かと思う。
「相対」が【叢書相對】第二編(もしくは「研究報告」)を最後に活字印刷による「報告」が無くなり、謄写印刷による手作りの「報告」に変貌して行ったのは前記の資料で明かである。それでは、正式裁判で無罪を勝ち取ったにもかかわらず、このように後退してしまったのは何故であろうか。普通に考えれば、無罪なのであるから同様な刊行形態が継続される、と考えるのが自然であろう。従来、大正年間は冊子のまま、ガリ版への移行は昭和になってから、と考えられていたのも無理からぬことである。
最初に思いつくのは経済的な理由であろう。活字にするにはガリ版より費用が掛かる。ある程度の部数が期待できなければ実現不可能である。しかし、会員数は限られている(百三十名以下)、と言う理屈である。 しかし、これは後年の困窮時代があまりにも強調され過ぎているための錯誤ではないだろうか。実際にそうであったか否かは議論の分かれ所かも知れないが、【相對】の第二集は既に会員配布であり、以降も非売品として、対象は会員限定である。会員数の正確な推移が判然としないので断定は出来ないが、「相対の会」が東京は上野の精養軒で行われていた大正四、五年以降、昭和になっても開催されていたことを考えると、それ程ひどい状態ではなかったことが推定できる。
他には、無罪とは言え、何回も警察の摘発を受けているし、今後もその可能性がないとは言い切れない状況で、引き受けてくれる印刷所が無くなってしまったとも考えられる(危険料を割り増しすれば別であろうが、そうする理由が小倉側には存在しない)。プロのガリ師(そんな言い方があるのかどうか知らないが)の手になるものならいざ知らず、読み易さという点では活字に遥かに劣る(特にこの頃の「相対」は印刷技術の未熟さも相まって読みずらい)にも拘わらず、時間や内容の変更に対する自由度が高いというのも理由になるかも知れない。
しかし、根本的な問題は、先にも述べた、小倉清三郎の研究報告をコピーして組合員(会員)が保管している、従って、出版物ではないので風俗壊乱を取り締まる出版法に抵触しない、という無罪の理由ではなかろうか。印刷物ではあるが出版物ではない、と言う苦し紛れの理屈が通ったのは良いが、これが足枷になって、きちんとした形の冊子にすることがはばかられるようになってしまった、とは考えられないであろうか。【叢書相對】第二編のように、一般の読者にも読んで貰えるものはそう多くは無く、活字印刷を続けたとしても、早晩行き詰まってしまったであろう。
假目録 | 一枚目(1123x816,194KB) |
---|
以下に目録の内容総てを転載するが、発表年度は手元にある原典他から頒布時期が推測できるもののみ記載した。
假目録(謄写になって后の分) | |||
---|---|---|---|
資料名 | 資料 枚数 | 資料 提供者名 | 発表年度 |
異性の友人(幼年時代少年時代)一 | 6 | 小倉清三郎 | |
仝 ( )二 | 4 | 仝 | |
仝 ( )三 | 7 | 仝 | |
青年時代の始まり(性的概論のうち) | 7 | 仝 | |
性的経験の始まりと信仰生活の始まり (性的概論のうち) | 7 | 仝 | |
大きな事柄 | 10 | 仝 | |
性的教育の意義(性的概論のうち) | 4 | 仝 | |
青年期の始めに於ける春的経験と其の分解 (性的概論のうち) | 6 | 仝 | |
村に於ける意外な経験 | 5 | 仝 | |
或青年の性的回顧 | 51 | 真砂生 | |
幼き人と其の週囲 | 5 | 路の石ころ生 | |
或中学生の手紙 | 10 | ||
土曜日の半日 | 都人生 | ||
白いリボンの女 | 5 | 芳保卦京 | |
土曜日の半日(後編一) | 5 | 都人生 | |
仝 (仝 二) | 4 | 仝 | |
仝 (仝 三) | 5 | 仝 | |
生活断片 一 | 5 | 仝 | |
仝 二 | 4 | 仝 | |
仝 三 | 3 | 仝 | |
仝 四 | 2 | 仝 | |
都人生の夢 | 4 | 仝 | |
土曜日の午后に就いて | 1 | Masago | |
たけのは氏の夢 | 1 | ||
誓ひの額 | 4 | たけのは | |
S − とその情婦 | 4 | 原人生 | |
曇った日の断想 | 2 | 原(仝?) | |
女の衣裳と春的経験 | 2 | 仝 | |
男嫌の女 | 16 | Rasanits | |
小米桜 | 9 | 共鳴子 | |
拒み得なかった女 一 | 5 | 雪のや生 | |
仝 二 | 7 | 仝 | |
泣き出した女 | 6 | 仝 | 大正十一年末 |
キッスの好きな女 一 | 5 | 仝 | |
仝 二 | 7 | 仝 | |
仝 三 | 5 | 仝 | |
十七になる女 | 3 | 雪のや生 | 大正十一年末 |
病院の女 | 6 | 仝 | 大正十一年末 |
犠牲 | 13 | N − 生 | |
夜更けの小道 | 11 | 都人生 | |
往来千摺 | 9 | ||
鎌倉山 | 6 | ||
赤い軒灯の家 | 6 | わかぐさ | |
夢日記のうちから 一 | 3 | TND | |
仝 二 | 6 | 仝 | |
参考品「黄素妙論」と交接に関する種々なる問題とに就いて | 2 | 倉清三郎 | |
黄素妙論 | 10 | ||
nという少女の見聞(一、花火の夜) | 2 | 都人生 | |
nという少女の見聞(二、 | 4 | 都人生 | |
それからそれ | 34 | 千曲生 | |
生蝕記の一部 | 4 | 舐瓜 | |
あの女 | 12 | しろがね | |
或る温泉村の人々 | 32 | 真砂生 | 大正十一年九、十月 |
五年后に於ける或る温泉村の人々 | 45 | 仝 | 大正11年秋期 |
上海にて | 5 | 小倉清三郎 | |
幼年時代の性的印象 | 16 | 浮舟生 | |
初めての試み | 10 | 仝 | |
魔窟の一夜 | 6 | 仝 | |
本能の暗き旅路(留治の性的生活) | 16 | 都人生 | |
幻想を追ふて(或る男と女の生活の一節) | 7 | 仝 | |
歌子といふ女 | 7 | 仝 | |
種々なる人々 | 12 | 都人生 | |
不見転の研究 | 10 | 陽炎生 | |
交接の経験から見た藝娼妓 | 3 | 仝 | |
或る正月の日記 | 6 | 仝 | |
或る男の春的嗜好 | 6 | 仝 | |
莟の花 | 8 | Resowuo | |
十六の春あった事 | 7 | 市松 | |
菊の井の女将 | 15 | 仝 | 大正十二年三月 |
倫敦ハイドパークの夜 | 9 | 仝 | 大正十二年三月 |
AB通信 一 | 9 | AB生 | |
仝 二 | 3 | 仝 | |
仝 三 | 3 | 仝 | |
夢 | 6 | 迂作生 | 大正十二年春 |
或年の十月の記録 | 6 | 迂作生 | 大正十二年春 |
抜萃帖 一 | 8 | 仝 | 大正十二年春 |
仝 二 | 6 | 仝 | 大正十二年春 |
某氏の日記の一節 | 22 | いろは | |
大通竜神 | 2 | 岩井岩二郎 | |
春感雑記 | 9 | 迂作生 | |
汽車中の出来事 | 24 | 小倉清三郎 | |
夫婦生活 二 | 12 | 仝 | |
仝 三 | 9 | 仝 | |
某氏の日記の一節のつヾき | 17 | いろは | |
仝 つヾき二 | 15 | 仝 | |
仝 つヾき三 | 11 | 仝 | |
私の春的生活の中から 一 | 7 | 小倉道世 | |
私の春的生活の中から 二 | 7 | 小倉道世 | |
仝 三 | 10 | 仝 | |
仝 四 | 3 | 仝 | |
仝 五 | 4 | 仝 | |
仝 六 | 9 | 仝 | |
ノートの中より | 9 | 小倉清三郎 | |
親子の縁 | 18 | 仝 | |
春的生活の中から(つヾき) | 6 | 小倉道世 | |
仝 (つヾき二) | 6 | 仝 | |
仝 (つヾき三) | 4 | 仝 | |
大正十三 − 二 − 現在 |
泣き出した女 | 或る温泉村の人々 |
---|
目録中気が付いた点を補足する。