当館の開館一周年記念として、期間限定で当館が所蔵する相対の原典を公開したことがありましたが、ディスク容量の増設など環境が整いましたので、常設することに致しました。館主の知る限り、今までに「相対」原典の書影が公開されたことは極僅かです。その意味でも、これだけの量を一度に公開するのは貴重なものである、と自負しています。内容の公開までは出来ませんが、「相対」が世間で思われているものとかなり様子が異なることが実感して頂けると思います。
当面は当時公開したものを多少アレンジしただけのものになりますが、その後に入手した資料も若干ありますので、時間を見つけて追加していこうと考えています。尚、「相対」の研究報告は印刷物では無い、と言う建て前のため、所有資格者(組合員)に郵送するとは言っても、頒布という言葉は使用していませんが、当館では敢えて頒布という言葉を使用しています。
相対会は東京帝国大学(現東京大学)の哲学科に籍を置いていた小倉清三郎が主宰した性研究団体です。東京は上野の精養軒で、後には小倉の自宅で何回か会合も行われていますが、大正二年一月に雑誌の形で【相對】の刊行を開始します。発行は相對社、定価十六銭です。つまり、公刊誌としてスタートした訳です。しかし、同年三月に発行された第二集では社告に『相對社友會員に限り配布することに致しました。』
とあり、定価の表示もありません。創刊二冊目で早くも何らかのトラブルが発生した可能性があります。一説には納本時に発禁になったとも言われています。その後当局とのゴタゴタもあり、正式裁判で争った結果、一審は有罪でしたが、大正八年に無罪が確定しています(昭和八年に再度起訴され、この時は有罪となりました)。その様な中、誌名を【報告】、【叢書相對】(この雑誌は再び公刊になりました)と変えながら刊行し続け、最終的にはガリ版刷りのパンフレットの様なものに変わりながらも、昭和十九年迄まで続きます。
雑誌時代の【相對】、及びガリ版の初期は、主宰者清三郎の性に関する論文が主たるものでしたが、途中から会員の性体験報告を中心とする資料集の方向へ転換して行きました。戦前のあの環境下でよくぞここまで、と誰しもが思う性体験手記を頒布し続けた偉業は、現在に至るも何人も越えられない金字塔です。
「相対」の資料はその一部が地下に流れて地下本として刊行されるなど負の面もありますが、張博士の編纂になる近代中国に於ける性体験手記「性史」、戦後になって日本生活心理学会の高橋鐵が刊行した性体験手記【セイシン・リポート】などに影響を与えたと言われています。
偉業の達成は夫人の道世の存在無しでは考えられません。清三郎が急死した昭和十六年一月以後は道世が相対会を継ぎ、戦局が厳しく、さすがにこれ以上は無理と思われた昭和十九年四月まで継続させています。最盛期には三百人以上いた会員も最後は六十人程に減っていました。肝心の元資料も昭和二十年五月二十九の横浜大空襲で総て焼失してしまったため、研究報告として過去に頒布されたものが現在では原本となってしまいました。
総枚数一万にも及ぶと言う膨大な資料のため、揃いが二組しか存在しない、と言うのでミチヨ女史が世話人となり(清三郎存命中からミチヨが世話人であったようです)、全三十四冊の叢書として、戦後の昭和二十七〜三十年に復刻されています。しかし、戦後のこの時期には既に揃いは存在しておらず、復刻版に洩れた資料の存在も今日では明らかになっています。また、この復刻版も当局の二度に渡る介入により、全冊揃いは一組か二組しか残存していないと言われていましたが、実際にはもう少し存在しているようです。
復刻版の最終号第三十四号の巻末でミチヨは『相対会第一組合特別会員と恩人』として百十二人の氏名と職業を掲載していますが、ここに記載されている人は表題にある通り、ミチヨ或いは清三郎が相対会に関連して世話になった人も含まれていますので、総てが会員ではありません。ここには作家の坪内逍遥(早田総長)や芥川龍之介、内田魯庵(評論家)、詩人の金子光晴、佐藤惣之助、婦人運動家の平塚雷鳥、尾竹紅吉、マルキストの大杉栄、伊藤野枝、ダダイストの辻潤、俳優では市村羽左衛門、中村吉右衛門などが掲げられています。他にも大学教授、代議士、軍人、画家、新聞記者など多士済々です。司法関係者では冒頭に記載されている弁護士の豊原清作、沢田薫などが会員であることはハッキリしていますが、当局側の人物では誰が会員なのかは分かりません。今後の研究課題かと思います。
新たに追加した『ガリ版資料 大正年間頒布分 その2』『ガリ版資料 昭和初年〜七年頒布分』はサムネイルを既存分より一回り大きくしています。サイズを書いてある拡大図も大きめになっています。既存分も後日統一する予定でいます。
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