高伴作に関する資料は少なく、管見によれば雑誌【えろちか】(三崎書房)及び三崎版「高資料」に記述されているのみである。【えろちか】22(昭和四十六年四月)の解説に高伴作のプロフィールとして
元来小説家志望であった高伴作氏が、中退した陸軍士官学校に在学中から、いわば実録小説風に書きとめていたもので、その一部は太宰治氏も読んでいるはずである。その内容から推察すると、まったく発表の意志はなく、しかしながら非常に熱をこめて克明に書いたもので、これを読むと、文学というものは、必ずしも発表するために書くものではなく、心の衝動のまま、自分だけのために書くという場合もあり得ることを物語っていて、興味深い。ただ、その表現にいっさい斟酌がなされておらぬため、現在の状況下では公開にあたって表現手法にある調整を行わざるを得ず、それが原資料の価値を多分に薄める結果となったことは、まったく残念である。
と云う記述がある。この記述では第三次木曜会とは別に高伴作なる人物が戦前(または戦中)から自身(?)で蒐集した資料を題材とした小説として書き溜めていたものが、後に第三次木曜会が蒐集した資料をその一部に加えて「高資料」として発表されていると云うように読める。つまり高伴作が主であり、第三次木曜会は従でしかないことになる。八十一冊対二冊と云う整理ノートの数がこのことを裏付けるように見えるが、これは「高資料」の名称の説明にはなっても、初出の高伴作自身の解説である『同人が蒐集した性生活記録を、同会解散後、同人中若干の有志が整理したもので…略…聊か文学的潤色を試みた』
とは明らかに矛盾する。
「高資料」以外で高伴作が発表した作品は見当らず、高伴作自身の文章としては、最初に「高資料」が発表された雑誌【生活文化】(生活文化資料研究会)に於ける解説『「高資料」に就いて』のみである。高伴作の言葉として残っているものも、三崎版「高資料」の龍膽寺雄による解説に引用されている次の二つの文章のみである。
猥褻とは素晴らしい、私は猥褻ときいただけで、心おどるのである。
エロティックだとかエロティシズムだとか、色気だとか、好色的だとか、いろいろな表現を使うが、結局の所これらは「猥褻」からただよう匂いのようなものにすぎない。すべての匂いは、その匂いを発散する「物」がまずあって、そこからいろいろな匂いが立ちのぼるにすぎない。私が興味を持つのは、そういう匂いを発散する本体ズバリそのもので、ただ匂いなんか嗅いだ所で仕方がない。
この言葉を引用する前に『彼はこういう言い方をしている』
と述べていることから、少なくとも龍膽寺は高伴作を知っており、その言動に共感していることが推測できる。しかも、その入れ込み方は同様の記述を「高資料」とは直接関係の無いどこかで行っていても不思議はないと思わせる程である(だからこそ自ら解説を書いているのであるが)。この観点から「高資料」が最初に発表される昭和二十九年以前の龍膽寺の発表した作品、著述、発言等を調べてみると興味深い事実が判明する。
初めに雑誌【あまとりあ】三巻十二号(昭和二十八年十二月)の座談会『性行為はどこまで行ける?』の内容を少し長くなるが転載する。
R「略…一体、性を口にする性科学者や、これを活字で扱う性ジャーナリズムは、自分たちは性を解放して、これを暗がりから明るみへ出し、これのもっていた肩身狭い一種の汚穢感羞恥感を払拭するのだと、機会あるごとに公言しながら、それでいて、一方『猥褻』とか『助平』とかいう言葉で表現される性の属性を、自分で不潔がったり恥入ったりして、顔を赤くしてソレに抗議するんですネ。Sさんはソコがちがうんです。性の妙味というのは、喰べものでいえば、納豆やチーズみたいなもので、猥褻というのは、いわば納豆やチーズが発散する匂いう(ママ)ようなものだから、この匂いをキラって性の妙味を味わおうなんていうのは、オヨソ無風流で無意味きわまる、といわれるんですヨ。納豆やチーズはあの風味で食慾を刺戟するのであり、性の刺戟も先ず、『猥褻』感からはじまる。…略」
O氏「猥褻ホルモン、助平ヴィタミンですか、なるほどネ。結局、言葉がいけないんでしょうネ。」
S老「イヤ、その言葉がいゝんだ。こんな素晴らしい言葉はないナ。猥褻だ、などというのをきくと、ゾクゾクするほどうれしいからネ。(笑)それともこれは変態かナ。」
この文章だけ見るとSさんと呼ばれている老人は正に高伴作その人ではないかと思われる程である。しかし、解説によるとS老は元M物産の顧問でI百貨店の重役ということになっており、およそ高伴作のイメージとは一致しない(因にRが龍膽寺、O氏はM製薬株式会社の重役)。ただ、龍膽寺がこれらの言葉に対して非常に興味を持っていることは窺い知れる。
同じく翌号の【あまとりあ】四巻一号(昭和二十九年一月)で龍膽寺は『艶笑の効用と性慾文学』(ルビに『たつかたたぬかのろん』とある)を著し、性慾文学の存在意義として次のように述べている。
ところで、実はこゝでいう性慾文学というのは、実はちょっと意味がちがうので、一つの作品の一部に、主人公たちの性や性生活が扱われるというのでもなければ、また性そのものを主題とするにしても、自然主義的レアリズム流儀に、人間の性と性生活をただ克明に描写するということでもない。
一言でいえば、明らかにそのことを意図して、性慾昂奮を目的としてつくられた作品という意味で、要するに芸術とは、作者の精神をそこに摘出描写して、それを見それを読む者の心理を、作者の精神状態と同じ状態におとし入れることが目的なのだから、そこで、もし作者の性慾昂奮をそのまゝ読者に伝え得て、読者の性慾昂奮が行われれば、それは一応技術的に成功したものといってよろしかろう。…略…ところが、不思議なのは、性解放が叫ばれベットシーンを描くのをさわりと心得る風俗文学が横行し、エロ雑誌艶笑本がかくの如く汎濫する中に、ほんとうにまじめに生一本に、性慾と取り組みこれを主題としそのことにたゞ一つ意義を持たせようとした性慾文学というものが一つもない。…略…今や性に関する読者の水準ははなはだしく高まって、作者がその上に落差をもって立つというためには、よほどその道の達識人でなければなるまいから、インポテンツの蒼白い作家が、読者をうならせるような素晴らしい性慾文学を書けるかどうかは疑問でもある。…略…そういうお前はどうなのだと反問されそうだから、この際お答申すが、いずれ一世一代の性慾文学をお眼にかける機会があるだろうと申し上げる。いずれにしても、性慾文学というものはあり得る。
(この一文は食欲と性欲の対比等氏一流の哲学が面白く述べられており、一読をお進めする)龍膽寺雄の名前でその後性慾文学に相当する作品が発表された話は聞かないが、替わりに高伴作が一月後【生活文化】に「高資料」として発表したものは正に性慾文学そのもである。これらの示唆するものは何であろうか。先にも述べた【えろちか】26(昭和四十六年八月)の近刊紹介に三崎版「高資料」を龍膽寺雄著と誤記されていたものを、翌月号でお詫びと供に高資料整理委員会編に訂正している事実もある。単純なミスと云えばそれまでだが、うがった見方をすると事実が何であるのかを表出していると見ることもできる。
さらに傍証を固める為に年代は下がるが、雑誌【近世庶民文化】(近世庶民文化研究所・岡田甫主宰)100号(昭和四十一年十月)の月報を見てみよう。同月報の研究資料特別入札覧の{風俗資料}の解説に『宣伝によれば往年、性研究会を持った某医博が蒐集した性的体験記録ということだったが、じつは相当著名な作者の筆になるものと伝えられる。』
とある。この手の解説に於ける『伝えられる』という表現は余程ひねているか、孫引きでない限り、一般に『そうである』と読み代えて間違いない。しかも解説は岡田甫であり、信憑性は高いといえる。完全な創作か否かは議論の分かれる所であるが、少なくとも高伴作は著名な作家とは云い難い(それどころか「高資料」以外で名前を聞いたことが無い)。龍膽寺雄ならば話は別である。
これらから導き出される結論はもはや一つしかない。高伴作とは龍膽寺雄自身であり、性慾文学に該当する作品を発表するには龍膽寺雄の名前ではまだ差し障りがあると判断した結果、高伴作という人物に仮託することにより、「高資料」として発表したものである。従って、「高資料」は基本的には創作された作品であるが、題材となったシチュエーションは現実に存在し、それが原資料と云われるものであることは間違いないであろう。但し、原資料が大学ノート百冊分もあるというのは多分に誇張であり、二百数十篇分の題材があるという初期の解説の方が正しいように思われる。勿論、その後高伴作、否龍膽寺雄が自ら蒐集した資料も相当数在るであろうことは想像に難くない。
最後に龍膽寺と「高資料」を結び付けるような具体的な事例を紹介して本稿の筆を置くことにする。肉体に埋め込んだ鉄球と電磁石を利用した性感増進のアイデアが龍膽寺の名前で紹介されたのが【あまとりあ】三巻一号(昭和二十八年一月)『「性」の科学的處理』であり、「高資料」にそのことが出て来たのは東芸版{高資料}六巻『三つ巴いろごと遊び』に於いてであった。これは元来女性用であったが、男性用に改造したものが同じ東芸版{高資料}の一巻『人妻売春』に登場する。電気の応用は気に入っているのか、性交しながら直接電気を流す方法の存在することが先の【あまとりあ】にほのめかされているが、{風俗資料}1の『閨鬼』で具体的な方法が記述されており、東芸版{高資料}四巻『淫蕩録』にも採用されている。
同じく龍膽寺の【あまとりあ】三巻三号(昭和二十八年三月)『性科学風土記・好色常陸女』の『筑波の百姓女郎』に於ける記事の前半は{高資料叢書}2『ある部落の物語』の書き出しと同一であり、後半の『私設女郎』は三崎版「高資料」の『マコト会始末記』の題材と考えられる。全文を引用出来ないんことを遺憾とするが、紙数が足りないこともあり、紹介のみに止める。機会があれば、詳しい比較考証をしたいと考えている。
浅学のため独断に終始した感は否めないが、諸兄のご批判を乞う次第である。
当時の状況から龍膽寺雄即ち高伴作説は識者の間では既に囁かれており、本稿もそれを立証するための証拠集めと言う形を取っています。しかし、第一回を書いた時点で判明していたことは、東芸版{高資料}の原稿作者が龍膽寺雄であり、同社と氏との間の契約書の存在を本稿の掲載誌【IGNORANCE SIMPLE REPORT】の関係者であった二人が確認しており、そのことは筆者自身も聞いていました。さらに言えば、その事実が同誌の創刊に合わせて、本稿を書くきっかけになったとも言えます。
その後、この第一回を読んだ読者から、当時月刊誌【小説官能読切】(サン出版)で「高資料」が連載中である旨の情報を頂き、同誌の発行元を訊ねて編集長と直接話し合う機会が持てました。その時の話では、東洋芸術院の実態は知らないが(筆者も前述の話はしませんでした)、同誌に連載しているものは龍膽寺雄の原稿であることを断言されていました。只、完全な創作では無く元になる資料がある、とのことでしたが、氏自身もその実物は見たことは無いそうです。当初の「高資料」の説明に登場した二冊のノートに相当するものと思われます。
そもそも、同誌に「高資料」の連載が始まったのが、雑誌【えろちか】に掲載されたものに感動した編集長が、どうしても自身の雑誌でもやりたいとの思いから実現した旨の発言をされていました。どのような経緯で連載までに漕ぎ着けたかの詳細は聞きませんでしたが、結果として、最も多くの「高資料」が発表されたメディアになりました。
当然のことながら、高齢とはいえ当時は龍膽寺雄もまだ健在であり、いかに少部数の非公刊雑誌とは言えそこまで書いて良いのかどうか迷った末、最初の予定通り状況証拠から推測する形を取りました。氏が亡くなられて(平成四年六月没)から既に十年が立ち、筆者が持っている情報を公開しても差し支えないのではないかと考え、ここに追記します。
「性書・高資料とその作者の謎を追う」(近代文芸社、平成七年十一月)の作者である高木祥男氏は龍膽寺雄の自称弟子として接点があり、直接話を聞いたことなどを中心に、詳しい考察をされています。補足に書いた東芸版{高資料}の契約書の写真も掲載されています。多少の推理と直接対話の状況から高伴作は龍膽寺雄そのものであることを証明しています。疑問は館主よりも早くから持っていたようですが、本論に刺激を受けて(本論を読んでいた事実はある)か、真相を書き残すことになったようです。