完全な地下出版である{世界文学叢書}十巻(世界文学研究会、昭和四年十二月〜七年一月)は、秘密出版であるが故に、郵便による刊行案内や近況報告しか読者との接点がなかった。従って、刊行案内を始めとする通信ビラは会の命綱でもあった。{世界文学叢書}刊行後の会の状況などが推測できる通信ビラなどもある。会自体は発行名義人が次々と検束されていく中、内部から組織が瓦解していった。当初から無納本を前提の秘密出版のためか、通常の罰金刑による発禁処分のみではなく、刑務所送りになった者もいる。当館に於ける地下出版の定義で言えば、確かに地下出版なのではあるが、こうも簡単(?)に、何人もが検束されるという状態を、秘密出版、地下出版と見なすことが妥当であるか否かは、はなはだ疑問である。地下活動というのは、もう少し隠れているものだと思っているのだが…。日本の官憲が優秀なのか、あれだけ堅牢な装幀の造本を繰り返していれば、バレない方が不思議と考えるか、何れにしても、納得いかないものを感ずるのは館主だけであろうか。
尚、{世界文学叢書}の詳細に就いては「世界文学叢書」と「るつぼはたぎる」を参照して下さい。
{世界文学叢書}刊行に当たっての挨拶であるが、この種の案内や挨拶の常として、他の会のような金だけ取って出版しなかったり、刊行しても骨抜きの紛い物は一切排除し、真摯に刊行して行く旨の声明文に成りがちであるのは、世界文学研究会も同じである。刊行する内容は、毎回発行した本の最後に五六種の候補を上げておき、会員からの希望の多いものを刊行する、との記載もある。従って、内容見本は危険なこともあり出さないことで、「これで押収とか、発覚の恐れはありません」
と大見得を切っている。会費は一ヶ月五円と送料二十三銭としている。
第一回配本の内容案内である。しかし、当局の摘発があったとかで、刊行された内容は少し異なる。刊行案内にあった『紫あけび』はそのままであったが、『印度性典 愛戀秘文』は無く、代わりに『千種の花双羽蝶』と『如意君傳』が収載されている。絶対安全のはずが、第一回の配本前に当局の手入れを受けるという事態も、同叢書の前途を暗示しているようである。
『紫あけび』は一般には「袖と袖」の異版と言われているが、実態はもう少し複雑で、全体で七章構成の内、三章分が「袖と袖」(春の夜、里唄、町砧)である。他章との物語的な関連は無く、それらの章も独立した内容になっている。言わば、短編集の中に、「袖と袖」の一部が収載されている形であり、山崎ヌ坊の作ということになてはいるが、各種艶本からの寄せ集めであろう。
第三巻の刊行案内には事務所の移転通知が載っており、官憲との攻めぎ合いが活発化してきたことを物語っている。第三巻は刊行案内と実際に刊行されたもので所載作品が異なっている。 案内では「東海道五十三次膝摺毛」と「ルスの肉戦」の二編を併載することになっていたが、現在第三巻として残っているものは「仇枕浮名草紙」、「鴛鴦の手枕」、「蚤の自叙伝傳」の三編と附録春情夜話と題された小編(?)を収載したものである。原本未見により詳細は不明。
第四巻案内の冒頭に世界文学研究会を騙った二社を糾弾し、為替送金は不正の入り込む余地があるため、振替による方法に変更するお知らせを載せている。更に、会員を装ったスパイがいるため、送本方法を工夫したりしているが、未だ判明しないので、会員の整理を行なうことを宣言している。恐らく、送本(何巻かは不明)の時に添付されたと思われる小片も残っている。それとは別に、機関誌として「エロ」を猟奇社名義で創刊することを告げ、刊行案内の裏面を使って所載要目などを掲げている。しかし、その直後に、猟奇社の事務所を世界文学研究会内に変える「急告!!」を出すなど、混乱した状態が続いている。
「誕生一周年記念出版」と銘打た、第五巻の刊行案内である。会の主宰者である浦司若浪が、自身の体験を元にして書き下ろした「私と妻と娼婦」に別冊「画帖十二ヶ月裏表」を附した内容である。しかし、これも日の目を見ることは無かった。今までは、浦司若浪の名前で出していた刊行案内が、次号第六巻の案内以降パッタリ途絶えている所からも、同氏が検束されたため、執筆できなくなってしまったものと思われる。代わりに刊行されたのは、和綴じの大和三国誌(淫水亭開好作「通俗堪麁軍談」の全文活字化)であった。この案内には既刊分の所載作品一覧が発行日付と共に掲載されており、資料としても役に立つ。但し、既刊分なので、刊行案内と実際の刊行物が異なるなど、刊行経緯に就いての資料にはならない。
第六巻の刊行案内は、先にも記したように、浦司若浪名義ではなく、世界文学研究会同人一同の名義で出されている。案内のあった 「怪奇惨忍性交十態」はそのまま刊行されている。
第七巻の刊行案内は、第五巻大和三国誌に続いて、和書淫書開好記(為永春水作と案内にはあるが、一荷堂半水が正しい)である。但し、全文ではなく、初篇から第十三篇までである。裏面には{猟奇文献叢書}全十八巻の刊行案内と、第一回「性画の研究」(赤木妖三)の内容案内が、猟奇社発行として載っている。先にパッタリ無くなったと書いた浦司若浪の名前が、ここだけには使われている。
「会員の皆様!!」は第七巻の発送通知である。代金引換便で送付した旨のことがかいてある。事故が多いのかどうか、現金引換えという手段は今でも行なわれているが、この時はある理由によりそのようにしている。その理由は後述する第八巻の案内で明かされる。尚、この通知には宛名が書かれているが、七十年以上昔のものなので、削除はせずに、そのままとした(以下のものも同様)。
会の誰かが面会に言って作成したものと思われるが、思想犯ならいざ知らず、艶本発行者の監獄からの挨拶というのも珍しい。北明ですら、獄中からの挨拶はなく、出したのは「亡者が娑婆に歸宅を許されたる話」で、仮釈放後である。妻と十歳を頭に六人いる子供が悲況の域に立っているが、本業の印刷工場があるので何とかなるとしても、世界文学研究会に直接関われないのは申し訳ない、と殊勝なことを述べている。
「世界文学叢書」と「るつぼはたぎる」のメインテーマの一つでもあったのだが、同叢書の第八巻が「るつぼはたぎる」ではない、という事実に対して、未だに「るつぼはたぎる」が第八巻である旨の解説をしているものが見受けられる(要するに、当館には専門の方はおいで頂けていない、ということですね。悲しいけど当然ですかぁ…)。その時証拠として出した「るつぼはたぎる」の刊行案内と発送のお知らせ『会員の皆様!』の他に、第八巻の刊行案内も追加した。これらの案内に明記されているので、異論の余地はないのであるが、この件はなかなか改まらない。別冊太陽「地下本の世界」も補遺にも書いたが、「性界聞覺叢書」に収載の『淫書開好記』は第十四編から始まっており、第七巻の同作品第十三編の続きであることは明白である。また、「性界聞覺草書 蜂之巻」という書名が「世界文学叢書 八の巻」と読めることでも明らかである。今回は、「会員の皆様!」を文章が読める程に拡大したので、御覧ありたい(画像サイズが大きいことと、縦横スクロールを駆使しないとならない点はごめんなさい)。
今回追加した刊行案内には、相変わらずスパイのことが書かれている(実際は毎回)。今までと異なるのは、スパイ発見の顛末も書かれている点であろうか。最初に会員として登録されているものが、二千六百九十七人、内、内容見本のみの請求と会からの勧誘に無反応なものが千八百十四人、何回か購読したものが六百五十三人、毎回の購読者が二百三十人としている。この数を多いと見るか少ないと見るかは意見が分かれよう。それはさて置き、発送前の摘発押収は過去十六回だそうであるから、一巻出すたびに二回以上の摘発を受けている勘定になる。にわかには信じられない数字である。そこで第七巻発送の時に、過去一回の申込もない者を除き、残りの八百八十三人を二十のグループに分け、その二十を地方別にし、四ヶ所の局より一日五十部づつを発送した所、小石川本局出荷の三日目に、警視庁に代引通知書が七枚舞込み、書留番号から氏名が判明した、そうである。
発送した八百八十三部の内、四百二十七部が返送されたため、返送者の内、確実な者を除いて総て破棄、会員の制限を行なったようである。今後は発刊の際に内容見本も送らないことを宣言しているが、これは最初の挨拶で述べられていた方針ではなかったのだろうか。
世界文学刊行会は地下出版組織なので、実写を頒布することに何の不思議もないが、何となく違和感を感じるのは書籍の出版を中心に考えているからであろうか。裏面の組版見本は「説教強盗」を扱ったもののようであるが(しかも上下が逆さまである)、世界文学刊行会でそのようなものを刊行した形跡が無いので、先に記した世界文学刊行会を騙った所の案内かもしれない。
第九巻と第十巻は、世界文学刊行会が内部分裂を起こし、石山哲夫こと石山久雄が会を私した、とされている時の刊行である。一方の言い分だけで状況を判断するのは危険であるが、第十巻の刊行案内には事務所移転の案内と石山哲夫の名前が大書されているが、世界文学刊行会の名称がどこにも無い点を考えると、私物化したのが事実であるように思える。その第十巻も、刊行案内と内容が一部異なるのであるが、再度出した正しい案内の小片に、世界文学刊行会名を判子で押してあるなどの、取って付けたようなやり方も、そのことを裏付けているように見える。
{世界文学叢書}の完了後、本流であると自称している(恐らく本当であろう)安部哲夫が、世界文学研究会の第二期としてブチ上げた時の声明文や刊行案内である。過去の実績を掲げ、石山哲夫の非をなじり、新たな決意を表明している。世界文学研究会の名称はそのままであるが、通信時の名義には「プリーモ商会大宮出張所」を使用している。以前のものには、「安部哲夫商店」の名義で発送された送り箱も残っているので、同じような安全対策なのであろう。七作品を収載したものを新容第一回として掲載しているが、組版見本も残っており、送本通知を兼ねた「声明書」でもあるので、実際に刊行されたものと思われる。
第二回はメインに「戸隠小夜丸物語」を配した六作品収載のものである。これも、送本通知を兼ねているので、実際に刊行されていると考えられる。