戦前に発行された雑誌【談奇党】第三号(洛成館、昭和六年十二月)の口絵に『エログロ發禁書見立番附』と題した変わり番付が掲載されています。所謂軟派本を洋の東西に分けて番付にしたものです。当時の軟派本に対する評価が分かって、なかなかに面白いものですが、西の張出横綱にランクされているのが「バルカン・クリイゲ」です。「カーマ・スートラ」等の性典や古典が上位を占める中、当時としては新参者にも関わらず、翻訳物のトップに位置する訳ですから、当時の評判がどれ程高かったかが伺い知れます。
その「バルカン・クリーゲ」を最初に刊行しようとしたのが、昭和初期の発禁王として著名な梅原北明でした。昭和三年の五月頃、「戦争」と題して三百七十五部限定、本文三度刷り、総革装幀の豪華本として世に出すはずでしたが、印刷出来の日(?)に全冊押収、日の目を見ることはありませんでした。しかし、このことが「バルカン・クリーゲ」の 名を軟派界に知らしめたのか、その後各出版社から陸続として刊行されることになります。戦前戦後を通して、翻訳物の艶本で、これだけ多く出版されたもの は、他にはないのではないでしょうか。しかも、刊行されたものの大半が摘発を受けているというのも特徴です。発禁本や地下本にそれ程詳しくない人にも、「バルカン・クリーゲ」の名前は喧伝されているようです。
著者はウイルヘルム・マイテル博士、ドイツ人ということになっていますが、正体は不明、艶本特有の仮託と思われます。 公刊誌である【グロテスク】二巻二号(グロテスク社、昭和四年二月)の『現代邦譯艶書解説史』で北明は「バルカン・クリイゲ(戰爭勃發)」として、出自を以下のように述べています。
一九二七年一〇月トルコ原本から四百部の限定で獨譯出版され、日本人として最初に獨逸から入手したのは僕である。”Vulkanische Krieg, von Dr Wilhelm Meiter.”Bei Beginnenden, Georg Miller, Privatdruck.)著者ウイルヘルム・マイテル博士とあれど、勿論まゆつばものと見做していゝ。第一巻、第二巻の合本ものであるが、これは最初か ら二巻を以つて終篇となる豫定のもとに戯作されたものではない。原本たるトルコの寫本が素晴らしく人氣を呼んだので、おだてられる儘に、著者が無理に續篇 をこぢつけたものだ。 第一巻は扉を見ると、「戰ひ始まりし時」と書かれ、更に小さく下に、「戰爭に依る道徳の破滅」と割書きされてある。 …中略…第二巻は、その扉にも「戰爭に依る慘虐と淫逸」とある如く、凡ゆる色情的慘忍性を以つ て描かれた作者快心のザデスムスの世界である。昨年五月、吾社で菊版、インデン總革製、本文局紙四度刷、三七五部の限定贅澤版とし、その翻譯書を發行し發 禁、最近、何處で原書を入手したか、牛込の日本文献書房より「バルカン戰争」と銘を打つて四百部出版され、昨年十二月、東京西神田警察署の御厄介になつた らしい。
他方、【奇書】臨時増刊(文芸資料研究会、昭和三年十二月)の『世界艶書目録並解題』に於いて佐藤紅霞は
九一、戰爭勃發 Als der Krieg begann! 全二冊 菊半裁判 前篇一〇六頁 後編一二二頁 一九二六年版 非賣品
本書はバルカン戰爭を題材として作られた艶情小説で、十二枚の挿畫を含んでいる。原書は佛蘭西語で『レ・アトロシテ・バルカニック』と云ふのである。本書の和譯は既にある方面から出版されたと聞いて居るから、多分讀まれた方もあらうと思ふ。
と述べており、北明の解説とは大分異なっています。どちらかが間違ってい
るのか、或いは両方とも正しいのか、の判断は難しい所です。素直に受け取れば、ドイツ語版とフランス語版の(どちらもドイツ語であり、フランス語版はこれらとは別に原書とされている。:平成二十一年六月二十一日修正)二種類あり、一年違いで出版されたことになりますが、お互い相手側の記述を欠いていますので、判断のしようがありません。紅霞の解説の方が、短いとは言え、より具体的ですので、信憑性は高いと言えるかもしれません。個人的には、そのこととは別に、ある理由により、紅霞の解説は正しいと考えています。しかし、ドイツ語訳の存在を否定する資料にはなりませんので、現状では両論併記するに留めます。ある理由に就いては、番外編で述べます
「バルカン・クリーゲ」の洋書原本に就いては結論を出さない(出せない)まま、当時の解説を両論併記で引用しておいたが、一昨年原書を手に入れた。日本に輸入されたものと同じものかどうかはまだ判然としないが、書誌情報等を追記する。
原書 表紙 |
判型は菊半裁程度(160x117)で黄緑に近い明るい緑色の布クロース製、表紙はマークのみでタイトルは無く、背に「Wollust und Grausamkeit im Balkankrieg(バルカン戦争に於ける欲望と残虐)」と箔押しされている。扉が「Als der Krieg begann!(戦争を始めた時)」で直下に背と同じ「Wollust und Grausamkeit im Balkankrieg」が書かれている。下段が「Privatdruck(私家版)」「1926」と記述されていて、前後編共同一である。中段にサブタイトルとして前編は「Garnisonen ohne Männer(男達の居ない駐屯地)」、後編は「Dem Feinde preisgegeben(敵に身を任せる)」と書かれており、北明の解説とかなり異なる。著者に関する記述はないし、トルコの原本云々の記述も無い。前後編の合本でページ数は紅霞の解説と同一である。
原書 前編扉 |
概ね紅霞の記述と一致しているが、全二冊ではない点と、挿絵が無い点が異なる。しかし、北明は合本であると記述しているので、輸入されたものが合本である可能性は否定できない。
この解説が書かれた時点では紅霞は北明と分かれているし、北明より若干早めに書かれていることからも、北明に影響されていないことは明白である。逆に、北明が記述しているタイトルの「Vulkanische Krieg」は訳すると「火山戦争」であり「バルカン戦争」にはならないし、著者のウイルヘルム・マイテルが北明のでっち上げであろうことは当時から言われていた。刊行年の一九二七年も一年違いであり、北明が紅霞の解説を強く意識していたことが想像される。
因みに「Als der Krieg begann!」のタイトルで一九二六年出版、二巻合本のものがベルリン州立図書館の蔵書として確認できたのが数年前であるが、現物を入手できるとは思っていなかった。ドイツの古書店から購入したのだが、今更ながらにインターネットの威力を実感した次第である。
バルカン半島に勃発した戦乱、守備隊を残して出征した男達、銃後に残された夫人達、戦争という異常な状況下で繰り広げられる淫らな世界を描いた作品です。
出征する夫を見送った後、独り慰めている伯爵夫人(指揮官夫人)ヘレーネ。それを垣間見ながら互いを慰め合う二人の侍女。やがて三人は一緒に…
指揮官夫人は夫に頼んで残してもらった下男のイストヴァンと、そのイストヴァンは二人の娘達と、更に素晴らしい晩餐の後は下女二人も加わり一人の男と五人の女が…
騎兵隊長夫人はその寂しさを愛犬に紛らわし、その行為を覗き見た歩兵隊中尉に迫られて…
ある貞淑な夫人は、たらし込んだ小間使いを使って麻酔薬を呑ませた醜男の軍曹に強姦されるが、やがてこれも…
遂に指揮官夫人は自分の邸宅に町の貴婦人達を集め、守備隊の兵士達も参じ入れ…。最初のパーティに参化できなかった若い人達も、参加させることを迫り…
やがて、一種の飽きが来た指揮官夫人は、貞操の堅い女を大勢の前で陵辱しょうと考え、一人の百姓女ヴァンヤーを探し当てる。激しく抵抗する彼女を計画通り皆の眼前で…
隙を見て逃げ出したヴァンヤーは敵陣に駆け込み、敵を手引きする打ち合わせをする。そうとは知らない町では、相変わらずの乱痴気ぶり、二匹の猿まで連れて来て…
一休みして皆が食卓についた時、敵兵がなだれ込んできた。夫人達は敵兵の手に落ち、守備兵はなぶり殺しにされ、全滅した。
敵方の侵入者に媚を売る者、抵抗を試みる者、と色々であるが、所詮衆寡適せず、町中が陵辱の軍門に下ってしまいます。一方攻め込んで行った友軍も、侵攻した町々で同じような行為を行ない、そのような状態が停戦まで続くことになります。
敵軍の宿舎代わりとなった町の家々、指揮官夫人邸には二人の中尉が泊り二人の侍女も加わって…
指揮官夫人邸に通い詰める淫蕩な妻に復讐するため、妻の妹を陵辱した馬具製造人、やがて妻も一緒になって…
指揮官夫人の娘達は挑発的な格好で歩き回り、誰彼構わず、犬や山羊とも…。
ある日、貞淑で知られる伯爵夫人を伴った敵の隊長は、食事の後で帰ろうとする夫人を鞭で脅し、皆の前で…。それを笑いながら見ているヴァンヤが居た。
話は変って、侵攻する味方軍では、制圧した町の豪商の住宅を割り当てられた二人の中尉は、夫人と二人の侍女を相手に…。
騎兵隊長は貴族夫人、二人の娘、家庭教師と二人の侍女、四人の召使を相手に取替え引替え…。やがて、自分の同僚も招待して夫人宅で…
寄宿舎では抵抗があったが、力で制圧、上流社会の娘たちを発見した。初めは抵抗していた謹厳な女教師も暴力の前に屈し、寄宿舎が娼家になってしまった。女教師はあろうことかそこの主人に納まり…。
列強の干渉で戦も終結、邸宅に戻った指揮官は娘のとんでもない出迎えにあ然とするが、一糸纏わぬ夫人と娘、侍女五 人囲まれ「ねえ!あなた!あなたは出征なさいます時には一人の女房を後に残しておいでになったのでした。所が、御帰宅になって見ると、其れが五人になって ゐるので御座いますよ!だからもうトルコくんだりまでお出掛けにならなくともよろしうございます!おうちにハレムを御持ちになってゐるのですもの!」とい う夫人の一言で物語の幕となる。