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閑話究題 XX文学の館 駄文雑録

紙っぺらの効能

近世庶民文化研究所の会報「瓦版」

地下本に関してはよく判らないことが多い。地下で動いていることが地上に住んでいる普通の人に判らないのはある意味当たり前である。それでも、何とかしてそこに光を当てようと努力する人たちもいる。そこで我も、と意気込んだ所で手掛かりになるものが無い。

無い無い尽くしでどうにもならない、と言うのが現状である。先達は一体どの様にして探求を進めたのか不思議でならない。

地下本を手にする前に判らないことと言えば、「地下本ってどんな本?何ていう本があるの?」と言うことであろうか。当たり前と言えば当たり前の話である。それでは、入手した後に判らないことと言えば、「何もかも判らない」と言うことである。

本そのものは手許にあるので、造本関連のことは判る。しかし、判るのはそれだけである。奥付は無いのが普通なので(有っても内容の信憑性は乏しい)、「それ以上のことは何も判らない」と言う結論にしかならない。

その意味で、この世界の先駆者達が残してくれた解説書は貴重である。昭和初期のエログロ・ナンセンス時代の軟派出版の裏面を覗かせてくれる【談奇党 三号】『好色文學受難録』(落成館、昭和六年十二月一日)、同じく軟派出版物のリストを中心にした【匂へる園 第二輯】『現代軟派文獻大年表』(風俗資料刊行會、昭和8年10月5日)、は現在でも基本図書である。

戦後では、斎藤夜居氏の「大正昭和 艶本資料の探求」(芳賀書店、昭和四十四年一月)や、「コレクトマニア奇譚」(昭和四十五年八月)、「猟本猟奇」(昭和五十年八月)などの私家版の解題本、書誌を中心にした【愛書家手帳】(昭和五十一年八月〜昭和五十五年三月)などの雑誌、城市郎氏の発禁本を中心とした一連の著作なども重要である。

【人間探求】【あまとりあ】など、主に旧風俗系の雑誌に掲載された解題も参考になる。執筆者が刊行当時の蒐集家であったり、研究家であったり、出版に関わっていたり、といった実績が意味を持って来るのである。

しかし、それらを較べてみると、お互いに齟齬があったりして益々悩むことになる。深く追求を始めたことにより、「何もかも判らない」から「何がなんだか判らない」に状態が変わっただけという悲惨な結果を見ることもある。それでも、数を集めて行けば少しずつ実状が見えて来るようになることはあるが…。

そんな二進も三進も行かない状況を一気に解決してくれるのが、たった一枚の紙っぺらだったりするのである。それは刊行案内であったり、発行趣意書であったり、会報であったりと場合によって異なるが、何よりも貴重な資料であることが少なく無い。

例を挙げれば、昭和四年末から七年に掛けて世界文學研究會名義で秘密出版された {世界文學叢書}と称する全十巻のシリーズがあった。その第八巻が、先の『現代軟派文獻大年表』刊行当時は不明とされていたのたが、戦後間もなくそれが「るつぼはたぎる」であるということになって定説化た。ところが、同会が頒布したチラシ『會員の皆様!』にそれとは異なる記述があり、「性界聞覺草書 蜂之巻」が正しい第八巻の書名であることが判明したのである。この「性界聞覺草書」という名称の書物の存在は、世界文學研究會以外の事件で以前から知られていたのだが、 {世界文學叢書}と関連付けて解説したものは存在しなかった。(詳細は世界文學叢書と「るつぼはたぎる」を参照して下さい。)

地下本ではないが、書誌研究家として著名な斎藤昌三が編集した「好色三代伝奇書」(美和書院、昭和二十七年五月)と題する和紙をたっぷり使った豪華本がある。『袖と袖』『乱れ雲』『四畳半襖の下張』の地下本御三家とも言える作品を公刊できる程度に改編して刊行したものである。改編したと言ってもそこは御三家のことであるから当然の如く当局から注文が付いた。千五百部の限定出版の予定であったものが、限定数を売り切る前に販売が出来なくなってしまった。世間的にはそうである。しかし、実際には増刷されているのである。雑誌【近世庶民文化】を発行していた近世庶民文化研究所には「瓦版」と称する会報があった。ザラ紙にガリ版刷りで毎回数頁程度のものであるが、『出版界あれこれ』と題する公刊、非公刊を問わない刊行状況の報告があり、そこに同書の増刷のことが記載されているのである。同書には最初から正誤表が無かったこともここで判明した。(詳細は紅鶴丹頂(美和書院一件)を参照して下さい。)

等々、地下本の現物だけでは判らない、しかも決定的なことが、刊行者自らの言葉で語られていたりするので、「たかが紙っぺら一枚」と馬鹿に出来ない威力を発揮することがある。何十年もの間定説とされていたものが、たった一枚のザラ紙でひっくり返る、その効能たるや薬に於ける劇薬以上である。

しかし、散逸しやすいと言う点では地下本以上である上、どの様なものが存在するかは更に判らない。従って、地下本の現物以上に入手し難いと言うことが難点と言えば難点か。但し、一度それらが手に入れば…


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