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閑話究題 XX文学の館 秘本縁起 山路閑古の秘本

僧房夢


表紙
本文
110×158107頁
活字印刷、四目綴
アンカット
昭和29年7月
限定200部

表紙違い

表紙違い

本書は他の自筆ガリ版本と異なり、活字印刷である。 私家版で活字印刷なのは本書のみである。 その為か、本書も孔版で刊行されたように解説するものを時折見掛けるが、間違いである。

昭和27年7月22日(木)『久ヶ原日記』(「散歩」18号所載)に「かねて執筆中なりし長編「僧房夢」脱稿」とある通り、かなり早い時期に完成している。 また、昭和27年8月「散歩」8号、本年度上半期の各誌に発表の拙作として、「僧房夢序曲(小説) 冬野 二号」とあるのは、序編のみを発表したものである(全編公表できるはずは無いので当然か…)。

本来永遠に闇に葬られてしまう筈であった本書が、現在他の私家版同様日の目を見ているのは(と言うのも変だが)、或偶然の賜物であることはあまり知られていない。

昭和29年6月19日(土)(「散歩」30号所載)「大風襲来の報あり。千葉治(※7)氏方被害ある由聞こえたれば、見舞に赴く。 …略…自重の秋は今ならんと。」 とある大風とは、生活文化資料研究会を初めとする出版物で性を扱っている殆どの会員制組織に官憲の手が入った事件のことを指す。 この結果、「生活文化」が廃刊に追い込まれるなど、戦後10年近く掛けて花開いて来たこの種の出版物が散り行く前触れとなった事件として、エポックメーキングな出来事であった。

紅鶴版の正誤表が問題ということで、手入れは美和書院にも及んでいる。 この時点で美和書院から刊行されている氏の作品は「茨の垣」「風流賢愚経」である。 同作品の名目上の編者は岡田甫であるが、捜査が進めば自身にも影響及ぼすと判断してか、 6月20日(日)「船中見苦しきものを海に投じ、古稿新稿皆出して焼く。…略…自筆の清書稿本積みて三尺許り、東夷の蹂躙に罹りて恥を晒すよりはと思ひ、火を掛けて焼き捨てし也。」 と、稿本を含む関連資料を焼却している。

戦災で「賢愚経」の稿本を焼失したことはあっても、自らの手で同じことを行うことになろうとは夢にも思わなかったに違いない。 本書も事が順調に進んでいれば、同様の運命をたどっていた所であったが、 6月21(月)「すでに印刷終わり、印刷紙のまゝ直送せられたるが、途中不着となり、幸か不幸か大森駅に駅止めとなり居る由、駅より通知あり。 無事に到着せば、これも焼却の憂目を見たりしならんに、悪運強くも娑婆に残る。」 という偶然で、九死に一生を得ている。

結果としては、この事件の直接的な影響を自身には受けなかったようであるが、荼毘に付された稿本類には哀悼の意を表さずにはいられない。合掌。

昭和33年夏「散歩」50号『一筆啓上』欄に「昨年たまたま印刷所の倉庫に七十部程の残品が発見されて、そっくり印刷所から差し戻されました。 それで希望の向には、ぼつぼつお譲りして居りましたのです。」とあり、当初の予定部数以上に発行されたことになる。 当館にも表紙違いのものが二種所蔵されているが、その辺の事情によるものであろう。

頒価は一口三百円の寄付(名目は書棚と机を作るため)、限定二百部。配布は同年7月である。


僧房夢(太平書屋復刻版)
105×154107頁
昭和61年5月限定150部

※7: 近世庶民文化研究所を主宰した岡田甫氏の本名である。この事件で同氏は2日間検束されている。

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