叢書「変態十二史」を刊行するに当たって、文芸資料研究会を発行所の名義とし、編集の実務を行う組織として文芸資料研究会編集部を立ち上げたのは、雑誌『文芸市場』の初期に倣ったものです。「変態十二史」の刊行が終わると、文芸資料研究会編集部を正式の社名とします。雑誌『変態資料』は文藝資料編集部の名義のまま終刊までいきますが、新たな単行本や叢書は文芸資料研究会編集部の名義で刊行されます。
雑誌『変態黄表紙』の会員に宛てた嘆願書です。気候の挨拶が「酷寒の砌」文中に「本年(昭和四年)」とありますので、昭和四年一月に出されたものと思われます。「いま經濟問題として、低當もなく金貳千圓の金子を貸與して下さる方もなければ、又無擔保でそれだけの金子を他から借りる經濟的信用もないのであります。」とありますが用途が書かれておらず、「お一人 金一圓から 金五圓まで を限度として(この範圍でご随意の額を)」とあるのみです。五月頃から九月三十日までに返済する旨の書き込みがありますが、いくら集まってどれだけ返したかは不明です。文藝資料研究會編輯部と發藻堂書院 代表 上森健一郎名義で出されていますが、上森個人の私的な費用に充てたものと思われます。
昭和四年二月付で『変態黄表紙』の会員に宛てた移転通知です。前半は『変態黄表紙』新年号が発禁になったので、会費は早い方がいい、といういつもの文言ですが、後半は「わが我が文藝資料研究會編輯部は、發藻堂書院、前衛書房一切と共に、幾多の希望に輝きつゝこの度業務擴張のため、下記の處へ移転いたすことになりました。洋々たる我らの前途!」と述べているように意気軒昂とした様子がうかがわれます。「それは山の手の牛込の一瓦葺平屋から、堂々たる十字街上野のビルデングへの進出に依っても」と続くように、文芸資料研究会編集部が上森健一郎から離れたことを示唆しています。
現物が見つからなかったため戦前の珍書屋 分派分裂 の画像をそのまま使用しています。なんとか読むことはできますが、画質が良くないので、現物が見つかり次第画像を取り直して差し替えます。
昭和四年三月付けで南柯書院創立と今後総ての出版(文芸資料研究会編集部、発藻堂書院、前衛書房)を南柯書院名義で行うことを報告しています。もう一つが、上野の帝博ビルに移転したと同時に経営が上森健一郎から山中直に移ったことの報告です。借款嘆願書での債務も引き継ぐと宣言しています。
昭和四年六月付の書局梨甫創立の御知らせです。これ自体は書局梨甫のものですが、南柯書院の実状が書かれています。南柯書院設立案内の連名になっていた西川操と青山倭文二が離れ、「目下南柯書院に殘って仕事をしている者は資本家中山直氏、宮本良氏、岩野薫氏三人に過ぎません。」と大木黎二もいないことが分かります。大木はおそらく上森健一郎が再起を図った東欧書院へ移ったものと思われます。
日付は書かれていませんが、南柯書院 宮本良の名前で出されています。中山直が健康上の理由で引退したこと、宮本良が経営を引き継いだこと、がまず書かれています。「タントリス・性學体系・雜話叢書・桃色草紙・嘆願(借款)書当に關する債務の辨明」ではそれら債務を中山直が引き継ぐ旨の話をしていたが、新経営者としてはそれは出来ないので、前々経営者の上森健一郎に債務を返上するとしています。身勝手と言えば身勝手ですが、資本家に手を引かれてはいかんともし難い、というのが実状ではないでしょうか。追記として『變態黄表紙』二月号が発送途中で押収されたので約半数の会員に届かなかったことが書かれています。